使徒の働き14章1~7節
先週は、パウロが《 よみがえりのキリストによる福音 》を語ったことでユダヤ人から妬みを買った為、弁明することになった場面に学んだ。その妬みは、彼らの同胞、又、ユダヤ教に改宗していた異邦人、改宗には至っていないまでもユダヤ教の神を恐れている異邦人たちが、キリスト教に改宗するとは以ての外としたから。使徒たちの弁明は・・・
ⅰ 46節a’ 「神のことばは・・・あなたがたに語られなければなりませんでした」と:
創世記12章1~3節 「・・・あなたは祝福となりなさい。・・・地のすべての部族は、あなたによって祝福される」と告げられているから ⇒ イスラエルが選民となった理由・目的。
ⅱ 46節c 「しかし、・・・」と:
ユダヤ人は主のその選びを履き違えて自らを特別視し、唯一自分たちこそモーセの律法を遵守して既に神に義とされており、キリストによる義など必要ではないとして拒絶。イスラエル民族は「今は」捨てられることになり、51節 「足のちりを払い」異邦人への道が開かれることに。
ⅲ 48節 「異邦人たちはこれを聞いて喜び」と:
ユダヤ人が今は捨てられ、異邦人に救いが及ぶことになった説明が《 ローマ11章11~15節 》に、更に、同25節 「・・・イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、・・・」とある。同33~36節 「ああ、神の知恵と知識の富は・・・」なのだ。
※ 52節 「弟子たちは喜びと聖霊に満たされて」とは、聖霊に従う者への恵みの確かさの証と覚えたい、と。
今朝は、パウロとバルナバが、ピシディアのアンティオキアでの宣教を退けたユダヤ人に《 決定的な宣言 》をして後、51節 「二人は彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオンに行った」、このイコニオンでの働きに移る。
福音を退けたユダヤ人への決定的宣言とは、46節 「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。ですから、見なさい、私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」だったが、その初めに訪ねた、14章1節a 「イコニオンでも、同じことが起こった」とある。
それは、1b~2節 「二人がユダヤ人の会堂に入って話をすると、ユダヤ人もギリシア人も大勢の人々が信じた。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちを扇動して、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」に見た《 宣教に伴う結実と迫害 》であるが、3節 「それでも、二人は長く滞在し」た、という彼らの姿勢に学びたい。
① 「それでも」について、詳訳 「それで」とあるところに。
「それで」という時には、彼ら迫害者たちによる大々的な挑戦がありながらも滞在したというより、積極的な姿勢をもっての滞在だったことが伝わって来る。長期間滞在することになったのには積極的理由があったということだ。
二人のこの状況を理解するのに、第三次伝道旅行の往路エペソからの※第一コリント16章5~9節を参考にしたい。
パウロは、8節 「しかし、五旬節まではエペソに滞在します」、9節 詳訳 「なぜなら、そこには効果的な働きをする機会である広い〈大きな、有望な〉門が私のために開かれており、又、反対者が沢山いるからです」と言っている。
彼がエペソ滞在を願ったのは《 有効な奉仕の可能性と敵対者が沢山いるから 》ということだったが、実に同様の状況下に置かれている。彼は、敵対者がいることで怖気づくどころか、悪霊の蔓延はびこる町【使徒19章18、19、22節】において、救われたばかりの信仰者の必要の為、滞在を願った。
ピリピ1章28節 「どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によること【神から来ているから】です」と!!
使徒たちの関心が、敵対者の悪意の如何には全くなく、自らの個人的損失の如何にも全くなく、唯、いつも聖霊の求めておられるところにしかないからだ。
② 従って使徒たちのこの姿勢には、3節b 「主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた」と、主の責任を持っての顕現がある。
その結果は、いよいよ敵対者の反感を買い、4、5節 「すると、町の人々は二派にわかれ、一方はユダヤ人の側に、もう一方は使徒たちの側についた。異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちと一緒になり、二人を辱めて石打ちにしようと企て」ることになるが、この反応はご存じの上だ。
《 主が使徒たちに、行わせ、証しされた 》ことによって、実は、抵抗するユダヤ人は、動けば動く程、内には妬みが炎のように燃え上がるのを知らされ、彼らには皮肉だが、神の実在を認めざるを得なくさせられ、更には自らの惨めな野獣的・肉的な正体を明らかに知らされることになった。
正に主の言われる通りなのだ。
ヨハネ8章37~47節 「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。・・・」と、敬虔を装うユダヤ人は、主の手に掛かるといつでもメッキがはがされるのみ。59節 「すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った」と出る。神を信じると豪語するユダヤ教徒は、聖霊の放つ光によって、自らの罪人である事実を認めざるを得なくされて謙るのみなのだが 殺害に走る。
③ しかし聖霊は、ご自身に従う彼らを守るべく、彼らに状況を知らせて行くべき道に導かれた。
6節 「・・・それを知って、リカオニアの町であるリステラとデルべ、およびその付近の地方に難を避け」させた。それは主が《 聖父の 時ならぬ時の死には 細心の注意を払われて現場を離れられたように 》彼らに身を引かせた。
※ 迫害をものともせずに※7節 「福音の宣教を続けた」とは、聖霊に導かれる幸いの証である!!
先週は、パウロが《 よみがえりのキリストによる福音 》を語ったことでユダヤ人から妬みを買った為、弁明することになった場面に学んだ。その妬みは、彼らの同胞、又、ユダヤ教に改宗していた異邦人、改宗には至っていないまでもユダヤ教の神を恐れている異邦人たちが、キリスト教に改宗するとは以ての外としたから。使徒たちの弁明は・・・
ⅰ 46節a’ 「神のことばは・・・あなたがたに語られなければなりませんでした」と:
創世記12章1~3節 「・・・あなたは祝福となりなさい。・・・地のすべての部族は、あなたによって祝福される」と告げられているから ⇒ イスラエルが選民となった理由・目的。
ⅱ 46節c 「しかし、・・・」と:
ユダヤ人は主のその選びを履き違えて自らを特別視し、唯一自分たちこそモーセの律法を遵守して既に神に義とされており、キリストによる義など必要ではないとして拒絶。イスラエル民族は「今は」捨てられることになり、51節 「足のちりを払い」異邦人への道が開かれることに。
ⅲ 48節 「異邦人たちはこれを聞いて喜び」と:
ユダヤ人が今は捨てられ、異邦人に救いが及ぶことになった説明が《 ローマ11章11~15節 》に、更に、同25節 「・・・イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、・・・」とある。同33~36節 「ああ、神の知恵と知識の富は・・・」なのだ。
※ 52節 「弟子たちは喜びと聖霊に満たされて」とは、聖霊に従う者への恵みの確かさの証と覚えたい、と。
今朝は、パウロとバルナバが、ピシディアのアンティオキアでの宣教を退けたユダヤ人に《 決定的な宣言 》をして後、51節 「二人は彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオンに行った」、このイコニオンでの働きに移る。
福音を退けたユダヤ人への決定的宣言とは、46節 「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。ですから、見なさい、私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」だったが、その初めに訪ねた、14章1節a 「イコニオンでも、同じことが起こった」とある。
それは、1b~2節 「二人がユダヤ人の会堂に入って話をすると、ユダヤ人もギリシア人も大勢の人々が信じた。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちを扇動して、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」に見た《 宣教に伴う結実と迫害 》であるが、3節 「それでも、二人は長く滞在し」た、という彼らの姿勢に学びたい。
① 「それでも」について、詳訳 「それで」とあるところに。
「それで」という時には、彼ら迫害者たちによる大々的な挑戦がありながらも滞在したというより、積極的な姿勢をもっての滞在だったことが伝わって来る。長期間滞在することになったのには積極的理由があったということだ。
二人のこの状況を理解するのに、第三次伝道旅行の往路エペソからの※第一コリント16章5~9節を参考にしたい。
パウロは、8節 「しかし、五旬節まではエペソに滞在します」、9節 詳訳 「なぜなら、そこには効果的な働きをする機会である広い〈大きな、有望な〉門が私のために開かれており、又、反対者が沢山いるからです」と言っている。
彼がエペソ滞在を願ったのは《 有効な奉仕の可能性と敵対者が沢山いるから 》ということだったが、実に同様の状況下に置かれている。彼は、敵対者がいることで怖気づくどころか、悪霊の蔓延はびこる町【使徒19章18、19、22節】において、救われたばかりの信仰者の必要の為、滞在を願った。
ピリピ1章28節 「どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によること【神から来ているから】です」と!!
使徒たちの関心が、敵対者の悪意の如何には全くなく、自らの個人的損失の如何にも全くなく、唯、いつも聖霊の求めておられるところにしかないからだ。
② 従って使徒たちのこの姿勢には、3節b 「主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた」と、主の責任を持っての顕現がある。
その結果は、いよいよ敵対者の反感を買い、4、5節 「すると、町の人々は二派にわかれ、一方はユダヤ人の側に、もう一方は使徒たちの側についた。異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちと一緒になり、二人を辱めて石打ちにしようと企て」ることになるが、この反応はご存じの上だ。
《 主が使徒たちに、行わせ、証しされた 》ことによって、実は、抵抗するユダヤ人は、動けば動く程、内には妬みが炎のように燃え上がるのを知らされ、彼らには皮肉だが、神の実在を認めざるを得なくさせられ、更には自らの惨めな野獣的・肉的な正体を明らかに知らされることになった。
正に主の言われる通りなのだ。
ヨハネ8章37~47節 「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。・・・」と、敬虔を装うユダヤ人は、主の手に掛かるといつでもメッキがはがされるのみ。59節 「すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った」と出る。神を信じると豪語するユダヤ教徒は、聖霊の放つ光によって、自らの罪人である事実を認めざるを得なくされて謙るのみなのだが 殺害に走る。
③ しかし聖霊は、ご自身に従う彼らを守るべく、彼らに状況を知らせて行くべき道に導かれた。
6節 「・・・それを知って、リカオニアの町であるリステラとデルべ、およびその付近の地方に難を避け」させた。それは主が《 聖父の 時ならぬ時の死には 細心の注意を払われて現場を離れられたように 》彼らに身を引かせた。
※ 迫害をものともせずに※7節 「福音の宣教を続けた」とは、聖霊に導かれる幸いの証である!!
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