使徒の働き13章42~52節
先週は、マルコの離脱後、二人が訪ねた、14節 「ピシディアのアンティオキア」で取り次がれたパウロの説教に良い反応が与えられた記事を学んだが、今後彼らが福音を伝える地域に〈離散の民ユダヤ人〉が散在している歴史に触れた。
ユダヤ人は、B.C.722アッシリア人による捕囚に始まり、バビロニア捕囚、ペルシア帝国時代の離散、エジプト支配期、シリアのパレスチナ占領期、ローマ征服によって離散。世界に離散していたユダヤ人が持っていた会堂を拠点に働きを進めていたと。
従って、パウロの宣教の初めての訪問地キプロス島【4、5節 「ユダヤ人の諸会堂」】でも、今後においても然りだった。こうした理解の下、ピシディアのアンティオキアに於ける聖霊に満たされた説教者パウロに結実をもたらした鍵を・・・。
ⅰ 15、16節で説教の要請に応えるパウロ。
パウロはこの要請をどんなに期待していたことか!! 伝えたいとの衝動に駆られるところだが、冷静に聖霊の促しを待ち望む霊性がここに ⇒ 第二テモテ1章7節。
ⅱ 16、26節では誰に語るかを知って語ると同時に、必ずや直面するであろう不信仰への警告を与える賢明さ。40、41節。
ⅲ 語る機会を得たならば、無意味な前置きなしに、内に委ねられている語るべき使信を淡々と語ったパウロ。
アブラハムの選びに始まり、ダビデの子孫として誕生されたキリストの《 死と復活によって、38、39節 ⇒ 罪の赦しとキリストによって信じる者はみな義と認められる 》という待ち望まれて来た福音が与えられたこと。
※ 聖霊に満たされることによる働きと覚えて励ましを、と。
今朝は、パウロがピシディアのアンティオキアで取り次いだ説教を引き続き「話してくれるよう」求められて臨んだ時のこと、44、45節 「次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た。しかし、この群衆を見たユダヤ人たちはねたみに燃え、パウロが語ることに反対し、口汚くののしった」事態が起こった記事に学びたい。
先に訪ねたパポスでも、8節 「ところが」と、地方総督が信仰に興味を持ち始めるや、「二人に反対して総督を信仰から遠ざけようとした」妨害が起こったが、ここピシディアのアンティオキアでも同様、聖霊の働きが顕著になる時、決まって起こるのが宣教の阻止を謀る動きである。
彼らの迫害の動機はいつも「妬み」である。宣教の阻止を謀ったユダヤ人は、45節 「この群衆を見」て妬みに燃え「パウロが語ることに反対し」たということは、明らかに、彼が力説した《 よみがえりのキリストによる福音 》に、早くも、同胞のユダヤ人までもが、並びにユダヤ教に興味を抱いてユダヤ教に改宗していた異邦人さえも、或いは改宗までに至ってはいないまでもユダヤ教の神を恐れている異邦人たちが、〈最も嫌悪していたキリスト教徒〉になることなど許し難いとした。
この「口汚くののし」るユダヤ人とは対照的に、46、47節 「パウロとバルナバは大胆に語った・・・」ことから Message を。
① 46節a’ 「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした」とは?
パウロの語った「神のことば」とは、言うまでもなく38、39節《 モーセによっては義と認められなかったことが、キリストによって信じる者が義と認められる 》であるが、それが「まずあなたがたに」とは?
それは、主がカルデア人の地ウルのアブラハムに、創世記12章1~3節 「・・・あなたは祝福となりなさい。・・・地のすべての部族は、あなたによって祝福される」と告げられたからだ。
それは主が「あなたは祝福となりなさい」と命じられたからであり、究極そのあなたがたによって全世界が祝福されなければならないからだ。ここにイスラエルが選民となった理由・目的がある。
② 46節c 詳訳 「しかし、あなたがたはそれ【キリストによる救いに関する神のみことば】を投げ捨てたので、自分で永遠のいのちに相応しくない者であるという判定を自分に下している〈あなたがたは自分自身の口で語ったことにより裁かれなければならない〉のです」とは?
ユダヤ人は主のその選びを履き違えて自らを特別視し、唯一自分たちこそモーセの律法の故に既に神に義とされており、キリストによる義など必要ではないとして受け入れようとはしなかったことによる。
その福音を投げ捨てた結果、自分で永遠のいのちに与り得なくし、遂には※46節e 詳訳 「今は見なさい、私たちは転じて異邦人【異教徒】の方へ行きます」となり、事実上、イスラエル民族は「今は」と捨てられた状態になる。
更に、49、50節 「こうして主のことばは、この地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町のおもだった人たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方から追い出した」為、51節 「二人は彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオンに行った」と、異邦人への新たな道が開かれることになった。
③ 48節 「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちに・・・定められていた人たちはみな、信仰に入った」とは?
この「永遠のいのちに・・・定められていた人たち」というのは、神が人の永遠の何れかを決定しておられることを意味していない。神は全ての人が悔い改めて救われることを願ってはいても、その人の自由意志によって〈悔い改めて信じるか否かを決定するので〉信じる者には永遠のいのちが約束され、信じない者は永遠の死に定められるとの意。
ユダヤ人が今捨てられ、異邦人が救いに与っている今の説明が《 ローマ11章11~15節 》に。更に、同25節 「・・・この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、・・・」とは、同33~36「ああ、神の知恵と知識の富は・・・」なのだ。異邦人の私たちに対する謙虚さへの勧めに留意を。
※ 52節 「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」とは、聖霊に従う者への恵みの確かさの証と覚えたい。
先週は、マルコの離脱後、二人が訪ねた、14節 「ピシディアのアンティオキア」で取り次がれたパウロの説教に良い反応が与えられた記事を学んだが、今後彼らが福音を伝える地域に〈離散の民ユダヤ人〉が散在している歴史に触れた。
ユダヤ人は、B.C.722アッシリア人による捕囚に始まり、バビロニア捕囚、ペルシア帝国時代の離散、エジプト支配期、シリアのパレスチナ占領期、ローマ征服によって離散。世界に離散していたユダヤ人が持っていた会堂を拠点に働きを進めていたと。
従って、パウロの宣教の初めての訪問地キプロス島【4、5節 「ユダヤ人の諸会堂」】でも、今後においても然りだった。こうした理解の下、ピシディアのアンティオキアに於ける聖霊に満たされた説教者パウロに結実をもたらした鍵を・・・。
ⅰ 15、16節で説教の要請に応えるパウロ。
パウロはこの要請をどんなに期待していたことか!! 伝えたいとの衝動に駆られるところだが、冷静に聖霊の促しを待ち望む霊性がここに ⇒ 第二テモテ1章7節。
ⅱ 16、26節では誰に語るかを知って語ると同時に、必ずや直面するであろう不信仰への警告を与える賢明さ。40、41節。
ⅲ 語る機会を得たならば、無意味な前置きなしに、内に委ねられている語るべき使信を淡々と語ったパウロ。
アブラハムの選びに始まり、ダビデの子孫として誕生されたキリストの《 死と復活によって、38、39節 ⇒ 罪の赦しとキリストによって信じる者はみな義と認められる 》という待ち望まれて来た福音が与えられたこと。
※ 聖霊に満たされることによる働きと覚えて励ましを、と。
今朝は、パウロがピシディアのアンティオキアで取り次いだ説教を引き続き「話してくれるよう」求められて臨んだ時のこと、44、45節 「次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た。しかし、この群衆を見たユダヤ人たちはねたみに燃え、パウロが語ることに反対し、口汚くののしった」事態が起こった記事に学びたい。
先に訪ねたパポスでも、8節 「ところが」と、地方総督が信仰に興味を持ち始めるや、「二人に反対して総督を信仰から遠ざけようとした」妨害が起こったが、ここピシディアのアンティオキアでも同様、聖霊の働きが顕著になる時、決まって起こるのが宣教の阻止を謀る動きである。
彼らの迫害の動機はいつも「妬み」である。宣教の阻止を謀ったユダヤ人は、45節 「この群衆を見」て妬みに燃え「パウロが語ることに反対し」たということは、明らかに、彼が力説した《 よみがえりのキリストによる福音 》に、早くも、同胞のユダヤ人までもが、並びにユダヤ教に興味を抱いてユダヤ教に改宗していた異邦人さえも、或いは改宗までに至ってはいないまでもユダヤ教の神を恐れている異邦人たちが、〈最も嫌悪していたキリスト教徒〉になることなど許し難いとした。
この「口汚くののし」るユダヤ人とは対照的に、46、47節 「パウロとバルナバは大胆に語った・・・」ことから Message を。
① 46節a’ 「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした」とは?
パウロの語った「神のことば」とは、言うまでもなく38、39節《 モーセによっては義と認められなかったことが、キリストによって信じる者が義と認められる 》であるが、それが「まずあなたがたに」とは?
それは、主がカルデア人の地ウルのアブラハムに、創世記12章1~3節 「・・・あなたは祝福となりなさい。・・・地のすべての部族は、あなたによって祝福される」と告げられたからだ。
それは主が「あなたは祝福となりなさい」と命じられたからであり、究極そのあなたがたによって全世界が祝福されなければならないからだ。ここにイスラエルが選民となった理由・目的がある。
② 46節c 詳訳 「しかし、あなたがたはそれ【キリストによる救いに関する神のみことば】を投げ捨てたので、自分で永遠のいのちに相応しくない者であるという判定を自分に下している〈あなたがたは自分自身の口で語ったことにより裁かれなければならない〉のです」とは?
ユダヤ人は主のその選びを履き違えて自らを特別視し、唯一自分たちこそモーセの律法の故に既に神に義とされており、キリストによる義など必要ではないとして受け入れようとはしなかったことによる。
その福音を投げ捨てた結果、自分で永遠のいのちに与り得なくし、遂には※46節e 詳訳 「今は見なさい、私たちは転じて異邦人【異教徒】の方へ行きます」となり、事実上、イスラエル民族は「今は」と捨てられた状態になる。
更に、49、50節 「こうして主のことばは、この地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町のおもだった人たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方から追い出した」為、51節 「二人は彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオンに行った」と、異邦人への新たな道が開かれることになった。
③ 48節 「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちに・・・定められていた人たちはみな、信仰に入った」とは?
この「永遠のいのちに・・・定められていた人たち」というのは、神が人の永遠の何れかを決定しておられることを意味していない。神は全ての人が悔い改めて救われることを願ってはいても、その人の自由意志によって〈悔い改めて信じるか否かを決定するので〉信じる者には永遠のいのちが約束され、信じない者は永遠の死に定められるとの意。
ユダヤ人が今捨てられ、異邦人が救いに与っている今の説明が《 ローマ11章11~15節 》に。更に、同25節 「・・・この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、・・・」とは、同33~36「ああ、神の知恵と知識の富は・・・」なのだ。異邦人の私たちに対する謙虚さへの勧めに留意を。
※ 52節 「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」とは、聖霊に従う者への恵みの確かさの証と覚えたい。
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