イースター礼拝『コリント人への手紙 第一』より


コリント人への手紙 第一
15章50~58節

 今朝は、全世界のキリスト教会で《 主の十字架の死からの復活を記念して 》礼拝をお捧げしている朝であることを覚えてみことばに傾倒したい。
 ベツレヘムの家畜小屋で産声を上げられた主の、ヨハネ1章29節 「世の罪を取り除く神の子羊」としての地上生涯は、私たち罪人に代わり、呪われる ゴルゴダの十字架に向かって始められたが、その完結は、この十字架の死ではなく、この死からの復活にあったことを再確認したい。
 言うまでもなく、主による贖あがないの究極は約束の聖霊の注ぎをもって完結するが、その聖霊の注ぎこそ、人の子となられた地上生涯で 死後、復活されて初めて実現することから、主の復活は贖いの要、生命的出来事だった。
 それだけに、この復活に向けての主の闘いの程は如何許りだったか、私たちは復活を喜ぶ際に考えなければならない。
 人の子となられた主は全能の神ご自身であるが、ベツレヘムの産声を上げられたその瞬間から、神の在り方を捨てられたお方。即ち、神の権能、権利の一切を完全に捨てられた。
 そうであれば、主は人の子としてどの様に生きられた?
 へブル5章7~9節 「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに【詳訳:キリストが輝かしい父のご臨在から切り離される恐怖の為にひるまれたことにより】聞き入れられ・・・お受けになった様々な苦しみによって【通して】従順【服従】を学び、完全な者とされ、・・・永遠の救いの源と」なられた、ここである。

 生涯従順を学ばれた「様々な苦しみ」とは、人の子となられた日から始まった《 サタンから受けられた【神の人類贖罪計画阻止を謀る】 》執拗な誘惑である。
 それは聖父の御心に従わせまいと襲う〈あの手この手と纏わりつき続ける〉誘惑をもっての挑戦であるが、主は、聖父への従順を貫かれる為、己に死に続けることで勝ち進まれた。
 ヨハネ12章27、28a節の祈り 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください」。
 すると、「天から声が聞こえた。『わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。』」との聖父からの激励のおことばを頂いた。
 その後のゲツセマネの園では、ルカ22章42~44節 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。【すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。】」の祈りをもって毅然と立ち上がられ、先に「わたしは再び栄光を現そう」と復活を宣言された聖父にご自身を委ねられた。
 主の聖父への完璧な従順はサタンを恐れさせ、創世記3章15節 「彼はおまえの頭を打」つと敗北したのが復活。ヨハネ12章24節 「一粒の麦は・・・死ぬなら、豊かな実を結」ぶとの、主の決意の先にあったのが復活【イザヤ53章11節】。
 主がご自身の命を悉く投げ打って捧げられたのは、即ち、「自分のたましいの激しい苦しみ」を回避されなかったのは、「苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎とがを負う」とある《 聖父の御心、罪人には絶望的だった救いの成就のため 》に他ならない!!
 主が「自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足して」下さったが故に、ローマ3章23、24節 「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです」と、与えられることになった復活がもたらした救いについて、今朝の聖句に見て聖餐式に臨みたい。

 51節 詳訳 「よく聞いて下さい。私はあなたがたに奥義〈秘密の真理、神の隠された意図【ご計画によって定められている事柄】〉を知らせます。私たちはみな死の眠りにつくのではなく、私たちはみな変えられる〈変化させられる〉のです」という栄光のからだに変えられる【復活のからだ、栄光のからだ ⇒ 栄化】という輝かしい福音である。
 地上における変化は、新生・聖化止まりだが、52節 「終わりのラッパ」、即ち、マタイ24章31節 「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます」と主が言われた《 主の再臨の時 》とともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます」とある。

① 何を意味するのか?

 主の死者の中からの復活によって、54節 詳訳 「死は【永久に】勝利に呑み込まれた【完全に壊滅させられた】」と言われていたことが成就したこと。
 何故なら、56節 「死のとげは罪であり【罪が人に死をもたらす】、罪の力は律法【律法が人の内に巣食う罪の威力を教える】」とある。律法が私たち罪人に、容赦なく " あなたは自らの罪の為に、神からの呪いを受けなければならない " と責め続ける。しかし、私に代わって罪のその呪いを受けて死を肩代わりして下さった主が、復活されたことによって、そのキリストの死が身代わりとして受け入られ、最早責めは取り除かれた。故に罪を知らされたその都度、十字架の赦しと清めに与り続けさえすれば良いだけとなった!!

② この知らされた「奥義」を聞いて信じる者への忠告は?

 58節 「ですから・・・【この勝利の確信に】堅く立って、動かされることなく【何事も動揺するに及ばない】、いつも主のわざ【聖霊の促しの実践】に※励みなさい(満ちあふれなさい)。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」と、主の再臨を念頭に入れた実践的信仰生活。
 地上生涯を煩わせる《 罪からの解放を経験したならば、私たちを煩わせるものとて一つもない 》のだから、主が良しとされることに励む以外、今を生きる意義は他にない。

※ 復活の望みを貫かれた主の信仰を無にせず今を!!

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