使徒の働き10章23b~48節
先週は、コルネリウスがカイサリアで見た幻に従って派遣した従者達を迎えるに先立って見たペテロの幻に学んだ。
ここに、聖霊による用意周到な備えを見た。何故なら、主の弟子たちは未だ、キリスト教徒としての聖霊による新たな生活に与っていたとはいえ、長きに亘るユダヤ教徒的慣習に馴染んでいた生活のままだったからだ。聖霊はこれらの現状を熟知の上で懇ろに《 頭なる主の抱かれる究極的全人類の救いの成就 》に備えられた。
ⅰ 11~17a節《 その方法は、主がペテロに権威を持って画期的時代を迎えたと伝え、神のご意向に従わせる 》ことで。
13節の「屠って食べなさい」に対して、即座に14節 「できません」と断固、抗議する拒絶反応に出たペテロに有無を言わせず、15節 「・・・言ってはならない」とだけ宣言された。
マタイ9章17節から、新しいぶどう酒の福音は、古い皮袋【旧約時代の教育的に定められてきた制度を】破棄し、新しい皮袋に換え、13節 「屠って食べなさい」に聞いて、主の生き方で示された新しい在り方に倣うことである。
ⅱ 17b~22節《 そのお扱いの直後、聖霊が異邦人を訪ねさせる 》ことで。
ⅲ 23節a《 その新しい時代を迎える兆しを見せる 》ことで。
「それでペテロは、彼らを迎え入れて泊まらせた」のだ。このヤッファで、皮なめし職人の家には《 主人のシモン、使徒ペテロ、異邦人のしもべ二人、ローマの兵士一人 》が語り合う光景はこれまでの偏見が徐々に解かている様子‼
※ 福音の宣教のうねりを感じ取りながら、先に進みたいと。
今朝は、ペテロが見た幻で、汚れた動物等を※13節 「屠って食べなさい」と言われるや即座に、14節 「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」と断固と拒絶したものの、再度、15節 「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と語られたおことばは流石に退けられず、17節 「今見た幻はいったいどういうことだろうか、と一人で思い惑って」と、19節 「幻について思い巡らしていた」ペテロだったが、遂に、34節a 「これで私は、はっきり分かりました」と明確な答えが与えられた場面に注目を。
その答えは、34b、35節 詳訳 「神は決して人による差別を付けられず、どの民族でも、神を崇め、うやうやしい従順を捧げ、正しい生活を送る者は、神に受け入れられ、迎え入れられる」ということだった。
ペテロが異邦人コルネリウスを訪ねた時、28節 「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示し・・・それで・・・来たのです」と言っていることから、ある程度の理解はしていたが、ここで「はっきり」分かったというのだ。
ペテロの確信の徹底さは、11章1、2節 「使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のことばを受け入れたことを耳にした。そこで・・・エルサレムに上っ」た時に受けた非難への対応により、教会が納得したことで明白。同17、18節。
ペテロの※34節 「これで私は、はっきり分かりました」は、1章8節の実現必須条件だったことだけを学んで message を‼
それは、44節 「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った」という結果を見たことで明確。
聖霊が下る順序は、人々が十字架の主を救い主としてお認めして、そこで初めての経験となるのだが、ペテロの説教が終わるのを待たずに、即ち、説教を終えたペテロが聞いていた人々に救いの招きをした訳でもないのに、彼ら異邦人が聖霊に満たされている。
ということは、ペテロの説教を通して《 聖霊が既に、彼らの心を十字架の主に開き、彼らが主を受け入れるように働かれた 》としか考えられない。
コルネリウスが、ペテロをどのように迎えたかを見よう。24節 「親族や親しい友人たちを呼び集めて、彼らを待っていた」、25節 「・・・迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ」、ペテロからの※29節b 「そこでお尋ねしますが、あなたがたは、どういうわけで私をお招きになったのですか」に対して、33節 「ようこそおいでくださいました。今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております」だった。
その彼らには、ペテロが直截に語った説教《 36~43節、ナザレ人イエスの十字架の死と復活による「罪の赦し」による福音 》が提供されさえすれば直ちに受け入れる態勢が整っていたということなのだ。
1章8節実現の必須条件である、ペテロの※34節 「これで私は、はっきり分かりました」とは何を意味している?
ペテロの※28、29a節 「神は私に・・・示してくださいました。それで・・・ためらうことなく来た」に見る《 聖霊の満たし 》。ペテロの初めての聖霊経験は、2章1~4節 「聖霊に満たされ」たペンテコステの日だったが、その後も、4章31節 「一同は聖霊に満たされ」と満たされ続けている。
10章14節 「主よ、そんなことはできません」と抵抗した時も、思い巡らしつつ自らを探られては聖霊の満たしに与っていただろう。古い皮袋を捨てて、新しい皮袋をもって生きるようにと命じられた主のおことばの前に謙り、弁解せずに従うべく思い巡らし、待ち望んで、導きに自らを従わせた。
最後に大切な一点に触れて締め括りたい。ペテロは後日開かれる※15章《 回心した異邦人をユダヤ人はどのように考えるべきかを議題にしたエルサレム会議【ガラテヤ2章1~】 》で、この11章17、18節の実体験を堂々弁明し賛同を得た筈だった。しかし、ガラテヤ2章11~14節 「ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は・・・していたのに・・・」というまさかの行動に出たことについてである。
あれだけ明確だったこの異邦人問題を貫くべきだったのに、人を恐れた行動に出ている。古い人は根気強く悉ことごとく処理され続けては聖霊に満たされ続けるべきことの重要さ。
※ 聖霊の満たしのみが主の成就に役立つとの自戒を‼
先週は、コルネリウスがカイサリアで見た幻に従って派遣した従者達を迎えるに先立って見たペテロの幻に学んだ。
ここに、聖霊による用意周到な備えを見た。何故なら、主の弟子たちは未だ、キリスト教徒としての聖霊による新たな生活に与っていたとはいえ、長きに亘るユダヤ教徒的慣習に馴染んでいた生活のままだったからだ。聖霊はこれらの現状を熟知の上で懇ろに《 頭なる主の抱かれる究極的全人類の救いの成就 》に備えられた。
ⅰ 11~17a節《 その方法は、主がペテロに権威を持って画期的時代を迎えたと伝え、神のご意向に従わせる 》ことで。
13節の「屠って食べなさい」に対して、即座に14節 「できません」と断固、抗議する拒絶反応に出たペテロに有無を言わせず、15節 「・・・言ってはならない」とだけ宣言された。
マタイ9章17節から、新しいぶどう酒の福音は、古い皮袋【旧約時代の教育的に定められてきた制度を】破棄し、新しい皮袋に換え、13節 「屠って食べなさい」に聞いて、主の生き方で示された新しい在り方に倣うことである。
ⅱ 17b~22節《 そのお扱いの直後、聖霊が異邦人を訪ねさせる 》ことで。
ⅲ 23節a《 その新しい時代を迎える兆しを見せる 》ことで。
「それでペテロは、彼らを迎え入れて泊まらせた」のだ。このヤッファで、皮なめし職人の家には《 主人のシモン、使徒ペテロ、異邦人のしもべ二人、ローマの兵士一人 》が語り合う光景はこれまでの偏見が徐々に解かている様子‼
※ 福音の宣教のうねりを感じ取りながら、先に進みたいと。
今朝は、ペテロが見た幻で、汚れた動物等を※13節 「屠って食べなさい」と言われるや即座に、14節 「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」と断固と拒絶したものの、再度、15節 「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と語られたおことばは流石に退けられず、17節 「今見た幻はいったいどういうことだろうか、と一人で思い惑って」と、19節 「幻について思い巡らしていた」ペテロだったが、遂に、34節a 「これで私は、はっきり分かりました」と明確な答えが与えられた場面に注目を。
その答えは、34b、35節 詳訳 「神は決して人による差別を付けられず、どの民族でも、神を崇め、うやうやしい従順を捧げ、正しい生活を送る者は、神に受け入れられ、迎え入れられる」ということだった。
ペテロが異邦人コルネリウスを訪ねた時、28節 「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示し・・・それで・・・来たのです」と言っていることから、ある程度の理解はしていたが、ここで「はっきり」分かったというのだ。
ペテロの確信の徹底さは、11章1、2節 「使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のことばを受け入れたことを耳にした。そこで・・・エルサレムに上っ」た時に受けた非難への対応により、教会が納得したことで明白。同17、18節。
ペテロの※34節 「これで私は、はっきり分かりました」は、1章8節の実現必須条件だったことだけを学んで message を‼
それは、44節 「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った」という結果を見たことで明確。
聖霊が下る順序は、人々が十字架の主を救い主としてお認めして、そこで初めての経験となるのだが、ペテロの説教が終わるのを待たずに、即ち、説教を終えたペテロが聞いていた人々に救いの招きをした訳でもないのに、彼ら異邦人が聖霊に満たされている。
ということは、ペテロの説教を通して《 聖霊が既に、彼らの心を十字架の主に開き、彼らが主を受け入れるように働かれた 》としか考えられない。
コルネリウスが、ペテロをどのように迎えたかを見よう。24節 「親族や親しい友人たちを呼び集めて、彼らを待っていた」、25節 「・・・迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ」、ペテロからの※29節b 「そこでお尋ねしますが、あなたがたは、どういうわけで私をお招きになったのですか」に対して、33節 「ようこそおいでくださいました。今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております」だった。
その彼らには、ペテロが直截に語った説教《 36~43節、ナザレ人イエスの十字架の死と復活による「罪の赦し」による福音 》が提供されさえすれば直ちに受け入れる態勢が整っていたということなのだ。
1章8節実現の必須条件である、ペテロの※34節 「これで私は、はっきり分かりました」とは何を意味している?
ペテロの※28、29a節 「神は私に・・・示してくださいました。それで・・・ためらうことなく来た」に見る《 聖霊の満たし 》。ペテロの初めての聖霊経験は、2章1~4節 「聖霊に満たされ」たペンテコステの日だったが、その後も、4章31節 「一同は聖霊に満たされ」と満たされ続けている。
10章14節 「主よ、そんなことはできません」と抵抗した時も、思い巡らしつつ自らを探られては聖霊の満たしに与っていただろう。古い皮袋を捨てて、新しい皮袋をもって生きるようにと命じられた主のおことばの前に謙り、弁解せずに従うべく思い巡らし、待ち望んで、導きに自らを従わせた。
最後に大切な一点に触れて締め括りたい。ペテロは後日開かれる※15章《 回心した異邦人をユダヤ人はどのように考えるべきかを議題にしたエルサレム会議【ガラテヤ2章1~】 》で、この11章17、18節の実体験を堂々弁明し賛同を得た筈だった。しかし、ガラテヤ2章11~14節 「ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は・・・していたのに・・・」というまさかの行動に出たことについてである。
あれだけ明確だったこの異邦人問題を貫くべきだったのに、人を恐れた行動に出ている。古い人は根気強く悉ことごとく処理され続けては聖霊に満たされ続けるべきことの重要さ。
※ 聖霊の満たしのみが主の成就に役立つとの自戒を‼
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