使徒の働き10章9~23a節
先週は《 10章~11章18節 》に、ヤッファに居るペテロが宣教の新たな段階に導かれた異邦人伝道の経緯を学び、その先駆けとなったコルネリウスの人となりに先ず注目した。
ⅰ 異邦人伝道への経緯
ⅱ コルネリウスの人となり
⇒ これら申し分ない人だったが、新たに生まれ変わる必要のあった人だった。
※ 聖霊に満たされているペテロは《 霊的渇きに熟している人物に 》遣わされたことを覚え、お互いの励みとしたいと。
今朝は、コルネリウスがカイサリアで見た幻に従って派遣した従者達が、9節 「旅を続けて、町の近くまで来たころ」、そうとは知らず彼らを迎えることになるペテロが、《 その訪問に備える幻を与えられていた 》記事に学びたい。
ここに、聖霊による用意周到な備えを見ることが出来る。
何故なら、エルサレム教会誕生より10年は経過しているとは言え、又、9章31節 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった」とは言え、その影響はユダヤ人に絞られていたから。
又その働きには、サマリア人に寄せていた偏見が取り除かれていたことは注目すべきだが、それでも同じ同胞であって、異邦人を教会に迎えることにはなっていなかったからだ。
主の弟子たちは未だ、キリスト教徒としての聖霊による新たな生活に与っていたとはいえ、長きに亘るユダヤ教徒的慣習に馴染んでいた生活のままだったからだ。
それを、9節b 「祈るために屋上に上っ」ていたペテロが見た幻《 11~16節 》での※13節 「ペテロよ、立ち上がり、屠ほふって食べなさい」に対する彼の※14節 「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません【レビ記11章に明記】」の返答に見る。
ここに来て初めて、ローマ人のコルネリウスを教会の交わりに迎え入れることになったということで教会に動揺を与え、その後、激しい論争を引き起こしたことでも明らかだ。
しかしやはり、教会の頭は主ご自身なのだ。聖霊は、これらの現状を熟知の上、懇ねんごろに《 頭なる主の抱かれる究極的全人類の救いの成就 》に備えられた。
聖霊は、ペテロに未だしっかり残っているユダヤ的考え方・生き方に終わりを告げさせ、主が目指しておられる新しい在り方に導くべく舵を取られた。その詳細について・・・
① 11~17a節《 その方法:権威を持って画期的時代が来たことを伝え、神のご意向に従わせる 》ことで。
17節aでペテロが、「今見た幻はいったいどういうことだろうか、と一人で思い惑って【不思議、疑問に思って】いると」とある限り、かなり衝撃的で理解を超えていたことだった。
彼が、9節 「祈るために屋上に上」ったのも、13節の「屠って食べなさい」に対して、即座に14節 「できません」と断固、抗議する拒絶反応に出たのも《 ユダヤ的習慣にしっかり従い、旧約の戒めに反すると考えた 》からだ。しかしその彼に有無を言わせず、15節 「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」とだけ宣言された ⇒ かつて主の、《 新しい皮袋と古い皮袋の話 》に通じる。
マタイ9章17節 「人は新しいぶどう酒【主の十字架によってもたらされた福音】を古い皮袋【ユダヤ教の古い形式】に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け【新しいぶどう酒は発酵するので、古く、もろい、既に伸び切った皮袋はそれ以上伸びる力がない為、裂けるだけ】、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます」と。
新しいぶどう酒である福音は、古い皮袋に入れてはならない。即ち、今まで旧約時代において教育的に定められて来た制度は最早古いものとして破棄し、新しい皮袋、即ち、13節 「屠って食べなさい」に従う生き方、狭さを拡げた主の生き方に倣うことである。
② 17b~22節《 そのお扱いの直後に摂理 》を見ることで。
19、20節 「ペテロは幻について思い巡らしていたが、御霊が彼に言われた。『見なさい。三人の人があなたを訪ねて来ています。さあ、下に降りて行き、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです』」と。21節 「そこでペテロは・・・」と、聖霊の促しに従った時、正に、彼は思い巡らしへの答えを見るようにされている。聖霊は確かな摂理によって、現実的に応えておられる。
③ 23節a《 その新しい皮袋の兆候 》を見せることで。
「それでペテロは、彼らを迎え入れて泊まらせた」のだ。何とここに、静かではあるが着実な足取りで、ペテロが主の生き様に近付けられていっているではないか。このヤッファで、皮なめし職人の家には《 主人のシモン、使徒ペテロ、異邦人のしもべ二人、ローマの兵士一人 》とが、何と睦まじく語り合い、これまでの偏見が徐々に解かれて福音の光を放ち始めている光景ではないか。
※ 福音の宣教のうねりを感じ取りながら、先に進みたい。
先週は《 10章~11章18節 》に、ヤッファに居るペテロが宣教の新たな段階に導かれた異邦人伝道の経緯を学び、その先駆けとなったコルネリウスの人となりに先ず注目した。
ⅰ 異邦人伝道への経緯
a. 10章1~8 ・・・カイサリアでのコルネリウスが見た幻。
b. 10章9~23a ・・・コルネリウスが幻を受けて、ヤッファに滞在しているペテロに使者を遣わしたことと、彼らが到着するまでの間にペテロが見ていた幻。
c. 10章23b~48 ・・・ペテロが、カイサリアからの使者たちと共にヤッファの兄弟たちを伴ってコルネリウスを訪ねた時、彼らは回心し、聖霊を受けた。
d. 11章1~18 ・・・異邦人が救われたことを聞いたエルサレム教会の反応。
ⅱ コルネリウスの人となり
a. 「神を恐れて」いた人。異教の偶像には仕えず、ユダヤ人が礼拝する神を自らの信頼すべき神として選んでいる。
b. 最も近い隣人の《 夫、父親、上司 》として良く仕える人。この確かさあって、2節 「民【離散のユダヤ人】に・・・施しをし、いつも神に祈りをささげ」、4節 「あなたの祈りと施しは神の御前に上って」とは《 施しの動機が純粋 》の証。
c. 7、8節 「御使いが彼にこう語って立ち去ると・・・呼び・・・説明して・・・遣わした」に見る従順な人。
⇒ これら申し分ない人だったが、新たに生まれ変わる必要のあった人だった。
※ 聖霊に満たされているペテロは《 霊的渇きに熟している人物に 》遣わされたことを覚え、お互いの励みとしたいと。
今朝は、コルネリウスがカイサリアで見た幻に従って派遣した従者達が、9節 「旅を続けて、町の近くまで来たころ」、そうとは知らず彼らを迎えることになるペテロが、《 その訪問に備える幻を与えられていた 》記事に学びたい。
ここに、聖霊による用意周到な備えを見ることが出来る。
何故なら、エルサレム教会誕生より10年は経過しているとは言え、又、9章31節 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった」とは言え、その影響はユダヤ人に絞られていたから。
又その働きには、サマリア人に寄せていた偏見が取り除かれていたことは注目すべきだが、それでも同じ同胞であって、異邦人を教会に迎えることにはなっていなかったからだ。
主の弟子たちは未だ、キリスト教徒としての聖霊による新たな生活に与っていたとはいえ、長きに亘るユダヤ教徒的慣習に馴染んでいた生活のままだったからだ。
それを、9節b 「祈るために屋上に上っ」ていたペテロが見た幻《 11~16節 》での※13節 「ペテロよ、立ち上がり、屠ほふって食べなさい」に対する彼の※14節 「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません【レビ記11章に明記】」の返答に見る。
ここに来て初めて、ローマ人のコルネリウスを教会の交わりに迎え入れることになったということで教会に動揺を与え、その後、激しい論争を引き起こしたことでも明らかだ。
しかしやはり、教会の頭は主ご自身なのだ。聖霊は、これらの現状を熟知の上、懇ねんごろに《 頭なる主の抱かれる究極的全人類の救いの成就 》に備えられた。
聖霊は、ペテロに未だしっかり残っているユダヤ的考え方・生き方に終わりを告げさせ、主が目指しておられる新しい在り方に導くべく舵を取られた。その詳細について・・・
① 11~17a節《 その方法:権威を持って画期的時代が来たことを伝え、神のご意向に従わせる 》ことで。
17節aでペテロが、「今見た幻はいったいどういうことだろうか、と一人で思い惑って【不思議、疑問に思って】いると」とある限り、かなり衝撃的で理解を超えていたことだった。
彼が、9節 「祈るために屋上に上」ったのも、13節の「屠って食べなさい」に対して、即座に14節 「できません」と断固、抗議する拒絶反応に出たのも《 ユダヤ的習慣にしっかり従い、旧約の戒めに反すると考えた 》からだ。しかしその彼に有無を言わせず、15節 「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」とだけ宣言された ⇒ かつて主の、《 新しい皮袋と古い皮袋の話 》に通じる。
マタイ9章17節 「人は新しいぶどう酒【主の十字架によってもたらされた福音】を古い皮袋【ユダヤ教の古い形式】に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け【新しいぶどう酒は発酵するので、古く、もろい、既に伸び切った皮袋はそれ以上伸びる力がない為、裂けるだけ】、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます」と。
新しいぶどう酒である福音は、古い皮袋に入れてはならない。即ち、今まで旧約時代において教育的に定められて来た制度は最早古いものとして破棄し、新しい皮袋、即ち、13節 「屠って食べなさい」に従う生き方、狭さを拡げた主の生き方に倣うことである。
② 17b~22節《 そのお扱いの直後に摂理 》を見ることで。
19、20節 「ペテロは幻について思い巡らしていたが、御霊が彼に言われた。『見なさい。三人の人があなたを訪ねて来ています。さあ、下に降りて行き、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです』」と。21節 「そこでペテロは・・・」と、聖霊の促しに従った時、正に、彼は思い巡らしへの答えを見るようにされている。聖霊は確かな摂理によって、現実的に応えておられる。
③ 23節a《 その新しい皮袋の兆候 》を見せることで。
「それでペテロは、彼らを迎え入れて泊まらせた」のだ。何とここに、静かではあるが着実な足取りで、ペテロが主の生き様に近付けられていっているではないか。このヤッファで、皮なめし職人の家には《 主人のシモン、使徒ペテロ、異邦人のしもべ二人、ローマの兵士一人 》とが、何と睦まじく語り合い、これまでの偏見が徐々に解かれて福音の光を放ち始めている光景ではないか。
※ 福音の宣教のうねりを感じ取りながら、先に進みたい。
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