聖日礼拝『使徒の働き』より 31


使徒の働き10章1~8節

 先週は、8章のサマリア視察後、エルサレムに戻っていたペテロのその後の働き、西海岸に位置する※35節 「リダとシャロン」、36節 「ヤッファ」でのことに注目した。

ⅰ 聖霊がペテロに癒やしの賜物を与えて宣教の為に用いられた。
 主のお働きを彷彿させる出来事として ⇒ 35節 「【中風を癒やされた】アイネアを見て、主に立ち返った」、41、42節 「・・・生きている彼女を見せた。このことがヤッファ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた」結実を。聖霊は今も同様のお働きを行わせることもお出来だが、故あって差し控えている。
 賜物については、第一コリント12章4~7節 「・・・皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられて」おり、36節 「彼女は多くの良いわざと施しをしていた」とある。但し、賜物が与えられるには次の重要な点を見逃してはならない。ドルカスが「女の弟子」とあり、肉性の清めの信仰に与って聖霊の満たしを知る者であることを。

ⅱ 43節 「ペテロはかなりの期間、ヤッファで、シモンという皮なめし職人のところに滞在した」ことに見る恵み。
 ユダヤ社会では皮なめしの職業に対して、動物の死体を扱うことと、その死体から発する悪臭を忌み嫌ったことから、その仕事柄、距離を取った上で為される必要があった。ペテロがシモン宅に滞在、しかも「かなりの・・・」だったことから、ユダヤ的偏見から解放されていたことが分かる。

※ 聖霊は、教会の肉的狭さをことごとく打破させては、10章から始まる異邦人への扉を開いて、地の果てまでの派遣のため備えては働いておられるお方と学んだ。


 今朝は更に一歩、1節 「さて」と、聖霊がヤッファに居るペテロを新たな段階へと導かれた出来事に注目したい。それは、カイサリア在住のイタリア隊の百人隊長とその家族、部下たちが揃ってペテロを迎え、33節 「それで、私はすぐにあなたのところに人を送ったのです。ようこそおいでくださいました。今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております」と導きを求め、その結果、44節 「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った」という現象を見ることになった出来事である。
 未だ宣教がユダヤ的慣習に囚われていた成長過程のエルサレム教会にあっては、想定内の反応ではあるが、11章1~3節 「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のことばを受け入れたことを耳にした。そこで、ペテロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちが、彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした』と言った」と物議を醸した。しかし・・・4節 「そこで、ペテロは彼らに事の次第を順序立てて説明した」結果、18節 「人々はこれを聞いて沈黙した。そして『それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ』と言って、神をほめたたえた」ということに。
 ユダヤ人キリスト者たちが持つユダヤ的慣習から脱皮していく動きは、主の「地の果てまで、わたしの証人となります」の実現に向けて、重要な出来事だった。

 この重要な出来事は、四つの場面から成り立っている。

ⅰ. 10章1~8 ・・・カイサリアでのコルネリウスが見た幻。


ⅱ. 10章9~23a ・・・コルネリウスが幻を受けて、ヤッファに滞在しているペテロに使者を遣わしたことと、彼らが到着するまでの間にペテロが見ていた幻。


ⅲ. 10章23b~48 ・・・ペテロが、カイサリアからの使者たちと共にヤッファの兄弟たちを伴ってコルネリウスを訪ねた時、彼らは回心し、聖霊を受けた。


ⅳ. 11章1~18 ・・・異邦人が救われたことを聞いたエルサレム教会の反応。


 この出来事について、かなりの部分を割いているのは、エルサレム教会の異邦人伝道を理解する上で重要な役割を果たすからだ。15章は《 特に5、6節 ⇒ 教会に異邦人の数が増えるにつれて必然的に発生した問題解決【福音はユダヤ人同様、異邦人の為のものでもあるのか? これをどう考えるか? もし異邦人も救われるとなるならば、ユダヤ人の習慣を守ってからでは?】の為、初めて開かれた 》大々的な教会会議の様子であるが、ここでペテロが、7~11節で取り上げているからだ。
 このような流れを把握した上で、教会にとって初めての異邦人伝道で回心したコルネリウスに注目したい。1節 「イタリア隊という部隊の百人隊長であった」とあることから、ローマ市民権を持っていて、カイサリアに駐屯する軍隊の兵士六百人を統率する隊長だとされている。
 彼の人となりを、2節 「敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげて」に学びたい。

① 9章31節 「主を恐れ」ではないが「神を恐れて」いた人。

 何故なら、コルネリウスは未だ主を救い主として知る人ではないからだが、異教の偶像には仕えず、ユダヤ人が礼拝している神を自らの信頼すべき神として選んでいる。ローマ人であれば当然、ローマ皇帝を神として礼拝すべきところ、彼はどのような経緯でそうだったのか? 人であれ物であれ、それらを礼拝する人々とは一線を画していた。

② 隣人に仕えることが出来ていた人。

 家族全員と共に、7節には部下にも影響を与えている。最も近い隣人に《 父親、夫、上司として 》仕えている人。どんなに外向きによく見えても、隣人には? どうであるかが、その人の真価である。但し、確認しておく必要があるが、失敗のない人? 行いにおける完璧さ? の意ではなく、内を見られる神に認められる純潔。この確かさあっての※2節 「民【離散のユダヤ人】に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた」ことが、4節 「あなたの祈りと施しは神の御前に上って、覚えられています」なのだ。彼の施しの動機が純粋だったからだ。

③ 7、8節 「御使いが彼にこう語って立ち去ると・・・呼び・・・説明して・・・遣わした」に見る従順な人。

※ 聖霊に満たされているペテロは《 霊的渇きに熟している人物に 》遣わされたことを覚え、お互いの励みとしたい。

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