聖日礼拝『使徒の働き』より 30


使徒の働き9章32~43節

 先週は、教会総会に備えて、31節 「こうして、教会は・・・信者の数が増えていった」点に学んだ。

ⅰ 教会が堅実に建て上げられていった内的充実さ。
a. 「主を恐れ」ていたこと。
 創世記22章12節 「わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった」に見たアブラハムの信仰で、神に寄せる全幅的信頼、仮にアブラハムに一抹の何故? が生じたとしても、それを潔く退ける神への愛。神との関係に人間的な情を介入させない神への個人的関係における明け渡し。
b. 「聖霊に励まされて」いたこと。
 教会が、神を恐れる信仰の妨げとなる内外の肉に死んでよみがえらされ、聖霊の満たしに与り続けたこと。

ⅱ そこから生まれるものは、宣教の結実にあること。
 教会とは《 エクレシア ⇒ この世〈それぞれの地域〉から召し出され呼び出された新しい神の民 》を意味し、かつて根深く存在していたユダヤとサマリアとの間における〈偏見、苦々しさ、蔑視〉の肉的な分厚い壁が取り払われ、聖霊による一致が与えられて存在する《 普遍的教会 》の意。
 黙示録5章9、10節 「すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖あがない【罪の奴隷状態から召し出され】」、国籍、人種的隔ての壁も除去されて、地理的・政治的差別が全くない一つの群れとしての普遍的教会。

※ この理解に立って、香川教会はIGMの群れに在って、世界の普遍的教会の頭である主のみ体の一肢としての自覚を新たに、この終末に向かっての宣教の結実を意識したいと。


 今朝は、8章のサマリア視察後、エルサレムに戻っていたペテロのその後の働きに注目したい。
 ペテロによって31節、「ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地に」誕生した群れ群れの※32節 「あらゆるところを巡回」された働きであるが、イスラエル西岸に位置する※32、35節 「リダ」と「シャロン」、36節 「ヤッファ」でのこと。【聖書地図12:使徒たちによる初期の宣教】
 これらの地域でのペテロの働きは《 34節に登場する中風を患っていたアイネアを癒やし、36~41節のドルカスを蘇生させる癒やし 》が行われたことだったが、この事実から二つのことを考えたい。

① 聖霊は、ペテロに与えられた癒やしの賜物を用いて、35節 「リダとシャロンに住む人々はみなアイネアを見て」と、主に立ち返らせたこと。

a. 主のお働きを彷彿させる働きである。1章1節 「イエスが行い始め」られたとある奇跡である。特に、34節 「アイネア、イエス・キリストがあなたを癒やしてくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい」と命じたことは、マルコ2章11節で主からの、「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい」に同様。
 ヨハネ14章12、13節 「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。・・・わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けに」の如く。
b. もし必要ならば今も主は、癒やしのわざを宣教拡大の為にお用いになられるお方であること。
 現代において行われていない訳ではないが、極めて稀なことである。それについては私たちの知るところではなく、唯、聖霊のお計らいによるものとの弁えが必要。主が奇跡を為さった時には救い主であるとの証の必要あってのことで、常にではなかった。何故なら《 人が徴しるしのみを求める、その肉的傾向性 》からである。しかしあくまでも、聖霊は良しとされる時に、35節 「・・・見て、主に立ち返った」、41、42節 「生きている彼女を見せた。このことがヤッファ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた」の為に行われる。
c. 賜物とは、ペテロに与えられた癒やしの賜物だけではなく、第一コリント12章4~7節 「・・・皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられている」とあること。
 36節 「・・・ドルカスという女の弟子がいた。彼女は多くの良いわざと施しをしていた」とある。39節 「やもめたちはみな彼のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々」とあることから、与えられた賜物をもって、教会に仕えた。
 しかも、第一コリント12章11節 「同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです」、18節 「しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました」。
 但し、賜物が与えられるには次の重要な点を見逃してはならない。
 ドルカスが「女の弟子」とあり、マタイ16章24節 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と主が言われた如く、唯信じるだけのことではなく、新生後、肉性の清めの信仰に与って聖霊の満たしを知る者であることを。

② 43節 「ペテロはかなりの期間、ヤッファで、シモンという皮なめし職人のところに滞在した」ことに見る恵み。

 ユダヤ人の間では、皮なめしという職業に対しては、かなりの偏見が抱かれていた。それは皮なめしの商売が、町から律法によって定められていた距離以上、離れていなければ許可されなかったとされ、動物の死体を扱うことと共に、その死体から発する悪臭を忌み嫌ったことによると。
 この事実から推し測るならば、このシモン宅に「かなりの期間」滞在していたペテロは少なからず、ユダヤ的偏見から解放されていたという喜ばしい変貌の一面!!
 10章では、ペテロが※9~17節 「・・・今見た幻はいったいどういうことだろうか、と一人で思い惑っていると」という出来事が起こるが、この幻は実に《 全ての人種的差別を越えて、異邦人伝道に携わる時が来るとの啓示 》で、ユダヤ人には受け入れ難いこと。しかし聖霊は段階的に彼を癒やし、異邦人をさえ受け入れられるようにと備えられていたのでは?

※ 聖霊は、悉く教会の肉的狭さを打破し、異邦人への扉を開いて地の果てまでの宣教に派遣されるお方と覚えたい。

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