聖日礼拝『使徒の働き』より 29


使徒の働き9章31節

 先週は、『使徒』の記者ルカが、31節 「こうして、教会は」と伝えて意味していることに注目した。

ⅰ 先ず、「こうして」とは?
 『使徒』に六回用いられている節目の句について言及したが、其々「こうして」と教会内に生じた様々な課題を適切に処理した事実を受けてのことで、その都度教会が堅く立てられていった様子を成長の節目ごとに伝えている重要な言葉であると。それらの問題解決は、教会内に事ある毎に明るみにされる肉的要素が暴かれては処理されるのを見た成長だった。
 一つの節目までを5年として6回、たった30年間で『使徒』における〈エルサレムから始まった宣教がローマまで運ばれていったこと〉を見たが、実に目覚ましいものだった。聖霊が教会を愛する故に、教会の主への従順を事ある毎に確認しては見届け、如何に《 次のステップを踏むのに慎重さをもってご自身のお働きを進めておられるか 》の証である。
 それは聖霊の「こうして」との確認、この確認無くしては次には進もうとされないみ思いである。

ⅱ 聖霊の確認による教会の健康状態から見たその成長とは?
 迫害者サウロの回心によって、激しかった迫害が終息して教会内に平安が与えられたのは束の間のことではあるが、次に展開していく上で必要なことだったに違いない。32節以降の異邦人伝道への道に備えられる為、「主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった」と。

※ 「こうして」と、日々の信仰生活に必要な霊的確認の作業を怠らずに、着実な成長を遂げさせて頂きたいと。


 今朝は、礼拝後に控えている教会総会に備えて、もう一度、31節に留まって、「こうして」と受けて教会が「・・・築き上げられて(堅実に建て上げられて)」いった様子に学びたい。

① 教会が堅実に建て上げられていった内的充実さ。

a. 「主を恐れ」ていたこと。
 創世記22章12節 「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」アブラハムの信仰に見られる霊的姿勢を意味する。
 従って「神を恐れる」とは?
 神に寄せる全幅的信頼の如何であり、仮にアブラハムに一抹の何故? が生じたとしても、それを潔く退ける神への愛。神との関係に人間的な情を介入させない【父と子、夫と妻との関係にあるもの】神への個人的関係における明け渡し。
 第一ヨハネ5章21節 詳訳 「偶像【神に当然捧げるべきあなたがたの心の中の場所を占めようとする物が何であっても、又全て、あなたがたの生活において第一の場所を占めようとされる方に代わろうとする代用品がどんな種類の物であっても】から自分自身を守りなさい。アーメン」に従うこと。
b. 「聖霊に励まされて」いたこと。
 教会が、聖霊との生きた関係、交わりが確立していなければ期待できないこと。即ち、教会を構成する一人一人が聖霊に満たされていることによる。
 取りも直さず、神を恐れる信仰の妨げとなる内外の肉的要因の全てに《 罪の事実が見逃されずに暴かれるその都度、処理し続ける真面目さ 》があったことによる。即ち、罪に死んでよみがえらされ、聖霊の満たしに与り続けた恵み。

② そこから生まれるものは、宣教の結実にあること。

 「信者の数が増えていった」とあるが、私たちの意識を変えて見る必要があり、単に地域地域にある個々の教会での結実という意識を超越して考えるべきこと。
 ここで、「教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり」とあるが、これまでは教会と言えば、エルサレム教会のことだったが、教会は最早一つ所だけに存在するものではなく《 エクレシア ⇒ この世〈それぞれの地域〉から召し出された呼び出された新しい神の民 》を意味し、かつて【と言ってもさほど昔ではない、数年前までは】根深く存在していたユダヤとサマリアとの間における〈偏見、苦々しさ、蔑視〉という肉的な分厚い壁が取り払われ、聖霊による一致が与えられて存在するようになった《 普遍的教会 》を考えなければならない。
 いわゆるこの「教会は」には、複数形が用いられているのではなく、単数形だとの指摘が物語っている。

 香川教会に救われる方々が起こされる、ここに立てられている。同時に私たちはこの視野を拡げる必要があるのだ。
 黙示録4、5章は、やがて私たちも加えられる天の礼拝の場面であるが、特に5章に目を向けたい。
 2、3章には、当時小アジアにあった七つの教会に対する主からのメッセージの記録《 聖霊降臨によって誕生した教会の今日に至るまでの姿:血生臭い地上に在っての迫害によく耐え輝いている事実への称賛はあるものの、多くを教会の腐敗に言及し、警告叱責が為されている 》であるが、舞台をこの地上から天上に移し、やがて迎えることになる礼拝の光景が伝えられているのが4、5章である。
 特に、5章6~14節 ⇒ ※9、10節の十字架で屠ほふられた子羊に捧げられる新しい歌「あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖あがない、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです」。
 ここに主の血によって贖い出された【罪の奴隷の身分から買い取られ、召し出され、呼び出された】一つの普遍的教会の集まりがある。国籍、人種的隔ての壁も取り除かれ、地理的、政治的差別が全くない一つの群れ、教会がある。
 この普遍的教会にあらゆる地域から召し出されて「信者の数が増えていった」との理解に立つ時、香川教会はIGMの群れ【聖と宣、きよめ派】に在って、世界の普遍的教会の頭である主のみ体の一肢としての自覚を新たに、特にこの終末に向かっての最終コースでの宣教の結実を意識したい。

※ 三年前に会堂返済完了後、更には昨年6月から新たな意識を持って始まっている宣教献金への充実を図りつつ。

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