使徒の働き9章31節
先週は、サウロが※20節 「この方こそ神の子です」とダマスコでの宣教を開始して周囲を驚嘆させる中、23節 「かなりの日数がたち」とある事から、その場を立ち退いたことが分かるが、その理由を《 ガラテヤ1章13~18節 》に学んだ。
この「かなりの日数」とは、再度ダマスコに戻ることになって過ごした月日も加えてであるが、三年間アラビアに《 神と独り交わって黙想する為に退いていた 》ことが分かった。
15、16節 「しかし」に《 アラビアで過ごした目的 》を見る。
ⅰ 「しかし・・・選び出し・・・てくださった神」と、《 神への過去の反逆性の恐ろしさに身震いした彼が、その状態からの方向転換が許されたことへの感嘆をもって 》整理する為。
彼は直ちに、悔恨の念から立ち上がってダマスコで宣教を試みたものの《 今すべきことは動くことではなく、これまでの生涯を見直し、悔い改めの徹底と、全く新たに出る為の深刻な自覚 》の為にと。『ローマ人への手紙』は、伝道旅行の折、コリントから送られた書簡だが、その経験的・教理的整理は、この間に為されたものだっただろうと思われる。
ⅱ 「恵みをもって召してくださった神」とあり《 迫害者を宣教者として召されたことへの感嘆をもって 》備える為。
使徒9章15節で「わたしの選びの器・・・わたしは彼に示します」と言われていた。アラビア経験後、彼はエルサレムに行くが 教会の理解が得られない中、バルナバの仲介で加わるものの、29節で命が狙われた為、30節 「タルソ」に退き、11章19~26節まで7年程、待機状態に身を潜めることに。
※ 動き易い互いへの警鐘とし、サウロの姿勢に倣いたいと。
今朝は、『使徒』の記者ルカが、31節 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった」と伝えていることに注目したい。
① 先ず、「こうして」とは?
『使徒』に六回【6章7節、9章31節、12章24節、16章5節、19章20節、28章30、31節】節目の句として用いられている。
初めに※6章7節 「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った」とあるが、教会成長に伴って引き起こされた問題解決【5章におけるアナニアとサッピラへのペテロの対応に結果する厳粛な扱いと、6章のその後発覚した苦情に対する使徒たちの対応、4節 「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します」ということで、七人の執事の選出】を受けて、教会が新たに見ることになった進展の様子が伝えられている。
二番目の※9章31節 「こうして」は、ステパノの殉教死から厳しさをより一層加えて来た迫害の首謀者サウロが、教会に迎えられたことを受けている。
実際、この出来事は、教会側に相当の勇気ある決断が迫られていたことだった。何故なら、アナニアの主に試みた抗議【13、14節】と、26節に見るエルサレム教会の反応【26節 「・・・弟子であるとは信じず、彼を恐れていた」】は、人間的には理解出来るから。しかし教会は、その肉を克服したのだ。
教会の内に与えられた福音が「こうして」と勝利した。
即ち主が権威をもって※15節 「行きなさい」と命じられた時、教会が《 迫害者を回心させる主を信頼して命じられるところに従い、或いは、27節 「サウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見・・・主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を彼らに説明した」慰めの子バルナバに宿る聖霊の愛に支配されている限り 》勝利するからだ。
実に、続く「こうして、こうして」と節目をもって教会の様子が伝えられていることに不注意であってはならない。一つの節目までを五年として6回、『使徒』はエルサレムから始まった宣教がローマまで運ばれるのに30年間の働きだったと計算されているが、目覚ましい進展ぶりである、この「こうして」に何を見るべき?
聖霊が如何に〈教会を愛する故に、教会の主への従順を事ある毎に確認しては見届け〉、次のステップを踏むのに慎重をもってご自身のお働きを進めて行かれるかの証をである。
あたかも、父なる神が、地上における人の子としての主のご生涯の重要な節目に三度「天から声が聞こえた」とある声、【受洗で「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。マタイ3章17節」、変貌山で「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け 同17章5節」、受難週で「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。ヨハネ12章28節」】と為された顕現のよう。
リック・ウォレン著『健康な教会へのかぎ』の冒頭での学びは、“ 教会は成長について思い悩む必要はない。健康であれば、自ずと成長する ” といった内容であったが、実に穿うがった言葉である。実にこの健康こそ、清めの恵みによってもたらされるホーリネス、聖なる状態に保たれること。
それは、聖霊の「こうして」との確認、この確認無くしては次には進もうとされないみ思いを学ぶ。
② 聖霊に確認された教会の健康状態から見た成長とは?
詳訳 「こうしてユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全土にある教会は、平安を得、確立され〈知恵と徳と敬虔において成長し〉、主に対する尊敬〈敬虔な恐れ〉をもって聖霊の慰め〈励まし〉を受けて歩み、増加し続けた〈数を増した〉」。
教会に迫害者サウロの回心を受け入れるという《 聖霊による試験を克服し 》、激しかった迫害が終息。平安が与えられ、聖霊による内的・霊的豊かさに与った。
これらの霊的結実の鍵は、何と言っても、「主を恐れ、聖霊に励まされる」に見る《 主への礼拝の姿勢 》である。
と同時に、この開かれた門から、かつて主が巡回しておられた【宣教の拠点をカぺナウムにおいて働かれたガリラヤを含む】パレスチナ地域を福音で満たし、32節以降、異邦人伝道への道が開かれ、宣教の実を与えられ始める。
※ 「こうして」と、日々の信仰生活に必要な霊的確認の作業を怠らずに、着実な成長を遂げさせて頂きたい。
先週は、サウロが※20節 「この方こそ神の子です」とダマスコでの宣教を開始して周囲を驚嘆させる中、23節 「かなりの日数がたち」とある事から、その場を立ち退いたことが分かるが、その理由を《 ガラテヤ1章13~18節 》に学んだ。
この「かなりの日数」とは、再度ダマスコに戻ることになって過ごした月日も加えてであるが、三年間アラビアに《 神と独り交わって黙想する為に退いていた 》ことが分かった。
15、16節 「しかし」に《 アラビアで過ごした目的 》を見る。
ⅰ 「しかし・・・選び出し・・・てくださった神」と、《 神への過去の反逆性の恐ろしさに身震いした彼が、その状態からの方向転換が許されたことへの感嘆をもって 》整理する為。
彼は直ちに、悔恨の念から立ち上がってダマスコで宣教を試みたものの《 今すべきことは動くことではなく、これまでの生涯を見直し、悔い改めの徹底と、全く新たに出る為の深刻な自覚 》の為にと。『ローマ人への手紙』は、伝道旅行の折、コリントから送られた書簡だが、その経験的・教理的整理は、この間に為されたものだっただろうと思われる。
ⅱ 「恵みをもって召してくださった神」とあり《 迫害者を宣教者として召されたことへの感嘆をもって 》備える為。
使徒9章15節で「わたしの選びの器・・・わたしは彼に示します」と言われていた。アラビア経験後、彼はエルサレムに行くが 教会の理解が得られない中、バルナバの仲介で加わるものの、29節で命が狙われた為、30節 「タルソ」に退き、11章19~26節まで7年程、待機状態に身を潜めることに。
※ 動き易い互いへの警鐘とし、サウロの姿勢に倣いたいと。
今朝は、『使徒』の記者ルカが、31節 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった」と伝えていることに注目したい。
① 先ず、「こうして」とは?
『使徒』に六回【6章7節、9章31節、12章24節、16章5節、19章20節、28章30、31節】節目の句として用いられている。
初めに※6章7節 「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った」とあるが、教会成長に伴って引き起こされた問題解決【5章におけるアナニアとサッピラへのペテロの対応に結果する厳粛な扱いと、6章のその後発覚した苦情に対する使徒たちの対応、4節 「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します」ということで、七人の執事の選出】を受けて、教会が新たに見ることになった進展の様子が伝えられている。
二番目の※9章31節 「こうして」は、ステパノの殉教死から厳しさをより一層加えて来た迫害の首謀者サウロが、教会に迎えられたことを受けている。
実際、この出来事は、教会側に相当の勇気ある決断が迫られていたことだった。何故なら、アナニアの主に試みた抗議【13、14節】と、26節に見るエルサレム教会の反応【26節 「・・・弟子であるとは信じず、彼を恐れていた」】は、人間的には理解出来るから。しかし教会は、その肉を克服したのだ。
教会の内に与えられた福音が「こうして」と勝利した。
即ち主が権威をもって※15節 「行きなさい」と命じられた時、教会が《 迫害者を回心させる主を信頼して命じられるところに従い、或いは、27節 「サウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見・・・主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を彼らに説明した」慰めの子バルナバに宿る聖霊の愛に支配されている限り 》勝利するからだ。
実に、続く「こうして、こうして」と節目をもって教会の様子が伝えられていることに不注意であってはならない。一つの節目までを五年として6回、『使徒』はエルサレムから始まった宣教がローマまで運ばれるのに30年間の働きだったと計算されているが、目覚ましい進展ぶりである、この「こうして」に何を見るべき?
聖霊が如何に〈教会を愛する故に、教会の主への従順を事ある毎に確認しては見届け〉、次のステップを踏むのに慎重をもってご自身のお働きを進めて行かれるかの証をである。
あたかも、父なる神が、地上における人の子としての主のご生涯の重要な節目に三度「天から声が聞こえた」とある声、【受洗で「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。マタイ3章17節」、変貌山で「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け 同17章5節」、受難週で「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。ヨハネ12章28節」】と為された顕現のよう。
リック・ウォレン著『健康な教会へのかぎ』の冒頭での学びは、“ 教会は成長について思い悩む必要はない。健康であれば、自ずと成長する ” といった内容であったが、実に穿うがった言葉である。実にこの健康こそ、清めの恵みによってもたらされるホーリネス、聖なる状態に保たれること。
それは、聖霊の「こうして」との確認、この確認無くしては次には進もうとされないみ思いを学ぶ。
② 聖霊に確認された教会の健康状態から見た成長とは?
詳訳 「こうしてユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全土にある教会は、平安を得、確立され〈知恵と徳と敬虔において成長し〉、主に対する尊敬〈敬虔な恐れ〉をもって聖霊の慰め〈励まし〉を受けて歩み、増加し続けた〈数を増した〉」。
教会に迫害者サウロの回心を受け入れるという《 聖霊による試験を克服し 》、激しかった迫害が終息。平安が与えられ、聖霊による内的・霊的豊かさに与った。
これらの霊的結実の鍵は、何と言っても、「主を恐れ、聖霊に励まされる」に見る《 主への礼拝の姿勢 》である。
と同時に、この開かれた門から、かつて主が巡回しておられた【宣教の拠点をカぺナウムにおいて働かれたガリラヤを含む】パレスチナ地域を福音で満たし、32節以降、異邦人伝道への道が開かれ、宣教の実を与えられ始める。
※ 「こうして」と、日々の信仰生活に必要な霊的確認の作業を怠らずに、着実な成長を遂げさせて頂きたい。
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