使徒の働き9章23~30節
先週は、主が、11節とアナニアに指示された時、直ちには従わなかった彼に再度《 命じられた主のお心 》に学んだ。
ⅰ 主は、弟子には《 従うこと 》を求めておられること。
主は、13、14節のアナニアの弁明に忍耐をもって耳を傾けられたが、この言い訳には触れず、再度、唯権威をもって、15節 「行きなさい」とだけ言われた。
ⅱ 主には、ご自身のご計画をお持ちであられるお方である故に、信頼すべきこと。
彼はサウロの人物像について説明したが、主は教会が受けている迫害をご自身の痛み(4、5節)として経験しておられるお方!! 主の側には、何一つ重荷とご計画を吐露される必要などないにも拘らず、そのアナニアに、15、16節 「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です・・・」と伝えられての再派遣だった。それは、唯々主の謙遜の故にだったと弁えたい。
現にアナニアの恐れは空しく、18~22節以降のサウロの変貌したのを見る時、彼は従わなかったことを申し訳なく思ったか? 同様の傾向を持つお互いの自戒とすべきこと。
※ アナニアは、22章12節 「律法に従う敬虔な人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人たちに評判の良い」人だったとあるが、迫害者サウロにご計画をお持ちだった主の「行きなさい」に即刻従えなかったことは残念。従って、より一層敬虔の人となる余地のある事実を認めて、第二コリント8章7節 「・・・信仰にも・・・あふれ【富んでいる】」、限りなく成長する必要があると謙り、より渇きを覚える者でありたいと。
今朝は、主からの派遣でアナニアを迎えたサウロが聖霊の満たしに与って後、直ちに、20節 「この方こそ神の子です」と宣教したことから周囲を驚嘆させる中、23節 「かなりの日数がたち」と、その場から退去した様子に学びたい。
この「かなりの日数がた」ったことについて、その流れを把握しておきたい。回心後 直ちにダマスコでの宣教に携わったサウロは、22節 「ますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえ(驚き慌て、混乱)させた」とあるが、そのことが直接の契機となったか? 否、極めて天的理由によって為されたと見るべき。
この「かなりの日数がた」って後、23~25節 「ユダヤ人たちは・・・サウロを殺そうと、昼も夜も町の門を見張っていた。そこで、彼の弟子たちは夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁伝いにつり降ろした」とあることについては、第二コリント11章32、33節 「ダマスコでアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの人たちの町を見張りましたが、私は窓からかごで城壁伝いにつり降ろされ、彼の手を逃れたのでした」と言及されていることから、再度 回心した町ダマスコに戻ったことが分かる。そのダマスコから、使徒9章26節 「エルサレムに」上ったのだ。
この動きについては《 ガラテヤ1章13~18節 》で更に明確で、サウロの回心が如何に天的な経験であったかを知ることが出来るが、先の「かなりの日数がた」ってということに含まれている《 神の視点からの必要不可欠な理由があった 》と見るべき理由を学ぶことが出来る。
サウロは、回心後 直ちにダマスコでの宣教に情熱を燃やしたが、ほんの暫しばらくの期間でしかなく、ガラテヤ1章16、17節 「・・・血肉に相談することをせず、私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました」とある。
従って、「かなりの日数がた」ってというのは、アラビアでの月日と再度ダマスコに戻って過ごした月日を合わせた三年間(アラビアでの年月がどれ程のものだったのかは分からないとしても)のこと。
《 サウロは自らに与えられた職務の厳粛さを感じ、先ず為すべき〈責務は 神と独り交わること、黙想することにこそあるとして、砂漠に退いた〉 》のだ。
彼のこの賢明な判断は、遂にはその初期から、顕著な現れを見ることになったのを見る ⇒ 22~24節 「それで私は、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られることはありませんでした。ただ、人々は、『以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている』と聞いて、私のことで神をあがめていました」と、その開始から着実な方向性が与えられていくことになった。
アラビアに退いたサウロのその姿勢に、ガラテヤ1章15、16節 「しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき」に抱いた《 啓示への厳粛な受け止め、その自覚 》を見る。それは・・・
① 「しかし・・・選び出し・・・てくださった神」と《 神への過去の反逆性の恐ろしさに身震いし、その状態からの方向転換が許されたことへの感嘆の重さが測られる 》。
直ちに、その悔恨の念から立ち上がってダマスコでの宣教を試みたものの《 今すべきことは動くことではなく、これまでの生涯を見直しての悔い改めの徹底と、全く新たに出る為の深刻な自覚を 》である。
ローマ人への手紙は、伝道旅行の折、コリントから書き送られた書簡であるが、その経験的・教理的整理は、この間に為されたものだっただろうと言われている。
② 「恵みをもって召してくださった神」と《 迫害者を宣教者となるべく召されたことへの感嘆の重さが測られる 》。
彼が四年後の殉教を前にして告白した※第一テモテ1章12~17節を見ると、この感動を生涯貫いていたことが分かる。
使徒9章15節 「わたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します」と言われていたことについて熟考。
アラビア経験後、彼はエルサレムに行くが 教会の理解が得られない中、バルナバの仲介で加わるものの、29節で命が狙われた為、30節 「タルソ」に退き、11章19~26節を迎えるまで7年程、待機状態に身を潜めることになる。
※ 動き易い互いへの警鐘として、サウロの姿勢に倣いたい。
先週は、主が、11節とアナニアに指示された時、直ちには従わなかった彼に再度《 命じられた主のお心 》に学んだ。
ⅰ 主は、弟子には《 従うこと 》を求めておられること。
主は、13、14節のアナニアの弁明に忍耐をもって耳を傾けられたが、この言い訳には触れず、再度、唯権威をもって、15節 「行きなさい」とだけ言われた。
ⅱ 主には、ご自身のご計画をお持ちであられるお方である故に、信頼すべきこと。
彼はサウロの人物像について説明したが、主は教会が受けている迫害をご自身の痛み(4、5節)として経験しておられるお方!! 主の側には、何一つ重荷とご計画を吐露される必要などないにも拘らず、そのアナニアに、15、16節 「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です・・・」と伝えられての再派遣だった。それは、唯々主の謙遜の故にだったと弁えたい。
現にアナニアの恐れは空しく、18~22節以降のサウロの変貌したのを見る時、彼は従わなかったことを申し訳なく思ったか? 同様の傾向を持つお互いの自戒とすべきこと。
※ アナニアは、22章12節 「律法に従う敬虔な人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人たちに評判の良い」人だったとあるが、迫害者サウロにご計画をお持ちだった主の「行きなさい」に即刻従えなかったことは残念。従って、より一層敬虔の人となる余地のある事実を認めて、第二コリント8章7節 「・・・信仰にも・・・あふれ【富んでいる】」、限りなく成長する必要があると謙り、より渇きを覚える者でありたいと。
今朝は、主からの派遣でアナニアを迎えたサウロが聖霊の満たしに与って後、直ちに、20節 「この方こそ神の子です」と宣教したことから周囲を驚嘆させる中、23節 「かなりの日数がたち」と、その場から退去した様子に学びたい。
この「かなりの日数がた」ったことについて、その流れを把握しておきたい。回心後 直ちにダマスコでの宣教に携わったサウロは、22節 「ますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえ(驚き慌て、混乱)させた」とあるが、そのことが直接の契機となったか? 否、極めて天的理由によって為されたと見るべき。
この「かなりの日数がた」って後、23~25節 「ユダヤ人たちは・・・サウロを殺そうと、昼も夜も町の門を見張っていた。そこで、彼の弟子たちは夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁伝いにつり降ろした」とあることについては、第二コリント11章32、33節 「ダマスコでアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの人たちの町を見張りましたが、私は窓からかごで城壁伝いにつり降ろされ、彼の手を逃れたのでした」と言及されていることから、再度 回心した町ダマスコに戻ったことが分かる。そのダマスコから、使徒9章26節 「エルサレムに」上ったのだ。
この動きについては《 ガラテヤ1章13~18節 》で更に明確で、サウロの回心が如何に天的な経験であったかを知ることが出来るが、先の「かなりの日数がた」ってということに含まれている《 神の視点からの必要不可欠な理由があった 》と見るべき理由を学ぶことが出来る。
サウロは、回心後 直ちにダマスコでの宣教に情熱を燃やしたが、ほんの暫しばらくの期間でしかなく、ガラテヤ1章16、17節 「・・・血肉に相談することをせず、私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました」とある。
従って、「かなりの日数がた」ってというのは、アラビアでの月日と再度ダマスコに戻って過ごした月日を合わせた三年間(アラビアでの年月がどれ程のものだったのかは分からないとしても)のこと。
《 サウロは自らに与えられた職務の厳粛さを感じ、先ず為すべき〈責務は 神と独り交わること、黙想することにこそあるとして、砂漠に退いた〉 》のだ。
彼のこの賢明な判断は、遂にはその初期から、顕著な現れを見ることになったのを見る ⇒ 22~24節 「それで私は、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られることはありませんでした。ただ、人々は、『以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている』と聞いて、私のことで神をあがめていました」と、その開始から着実な方向性が与えられていくことになった。
アラビアに退いたサウロのその姿勢に、ガラテヤ1章15、16節 「しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき」に抱いた《 啓示への厳粛な受け止め、その自覚 》を見る。それは・・・
① 「しかし・・・選び出し・・・てくださった神」と《 神への過去の反逆性の恐ろしさに身震いし、その状態からの方向転換が許されたことへの感嘆の重さが測られる 》。
直ちに、その悔恨の念から立ち上がってダマスコでの宣教を試みたものの《 今すべきことは動くことではなく、これまでの生涯を見直しての悔い改めの徹底と、全く新たに出る為の深刻な自覚を 》である。
ローマ人への手紙は、伝道旅行の折、コリントから書き送られた書簡であるが、その経験的・教理的整理は、この間に為されたものだっただろうと言われている。
② 「恵みをもって召してくださった神」と《 迫害者を宣教者となるべく召されたことへの感嘆の重さが測られる 》。
彼が四年後の殉教を前にして告白した※第一テモテ1章12~17節を見ると、この感動を生涯貫いていたことが分かる。
使徒9章15節 「わたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します」と言われていたことについて熟考。
アラビア経験後、彼はエルサレムに行くが 教会の理解が得られない中、バルナバの仲介で加わるものの、29節で命が狙われた為、30節 「タルソ」に退き、11章19~26節を迎えるまで7年程、待機状態に身を潜めることになる。
※ 動き易い互いへの警鐘として、サウロの姿勢に倣いたい。
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