聖日礼拝『使徒の働き』より 25


使徒の働き9章1~9節

 先週は、教会撲滅運動の首謀者サウロが復活の主の圧倒的な顕現によって歴史的回心に導かれた記事から《 主と教会との関係 》に焦点を当てて、Message を。

ⅰ 迫害下に置かれた教会に対する主のみ思いについて。
a. 2、3節 「・・・ところが」に秘められた主のみ思い。
 迫害下の教会が出来ることは? と言えば迫害に屈せずに、むしろ迫害する者の為に祈り、魂への重荷を抱きつつ、只管主の御心に明け渡し、聖霊のご指示を待つのみだった。主は、その為す術なく、一切聖霊に委ねて救霊の為に闘う教会に、ご自身のご計画をお持ちで立ち上がられるお方。
b. 4節 「・・・サウロ、なぜわたしを迫害・・・」、5節 「わたしは、あなたが迫害しているイエス」と言われるところに。
 主は《 教会とは有機的な結合関係に在り、教会への迫害はわたしへのもの 》と宣言され【コロサイ1章18節】、《 教会への迫害を、全てご自身の痛手として感じて、一切をご自身の権威をもって処理される 》お方。

ⅱ このお方に対する迫害下にある教会の在り方について。
 2節 「この道【に属する者※18章25節 「主の道」 ⇒ 神が人の救いの為にと備えられた道に従いさえすれば、生きさえすれば良いだけの道・主を信じることによって救うことを良しとされた道、キリストを信じる】の者であれば」と、日頃から「この道に属する者」との自覚の明確さ、肉を徹底的に扱って頂く信仰生活の真面目さが肝要であること。

※ 迫害者サウロに強烈な光をもって顕現された《 教会の頭なる主は今も現に存在するお方 》、全的明け渡しで従いたいと。


 今朝は、主に捕らえられた迫害者サウロが《 見事に方向転換して宣教者とされたこと 》に焦点を当てて Message を。
 サウロの迫害への意欲は、5章33~40節で、サウロが師事していたガマリエルの賢明な忠告をさえ退け、しかも※39節 「議員たちは彼の意見に従」ったにも拘らず、強硬にもエルサレム教会での弾圧で治まらず、9章1節 「なおも」と散って行ったヘレニストたちを連れ戻しては投獄し、殺されることを良しとする程に過熱していった。主は《 教会を敵に回して気が狂わんばかりに撲滅を謀るサウロを 》どのように捕らえられたのか?
 それは、ご自身の直接的な、3節 「ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした《 顕現の一撃 》をもってである。主のこの一撃によって、11節 「彼はそこで祈っています」と、彼は深い闇の底に沈められ、恐らく彼がこれまでに経験したことのない挫折感、喪失感、絶望感という底なし沼に投げ込まれることになったからだ。
 主のこの顕現は、彼を捕らえる決定打とされた。決定打というのは、この日を迎えるに先立ち《 聖霊の器によって光を放っておられた 》事実の故に。あの忘れもしないステパノの放つ光が既に、サウロの心の闇を照らし始めていたのだから。ステパノの殉教時の※7章59、60節の輝きと、その直前の※6章15節 「最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた」と、法院の一員として この時の顔に見た輝きを放った光をである。
 主のその上での《 顕現の一撃が彼を劇的な回心 》に導いた。その鍵を、4~6節《 主とサウロのやり取り 》に見たい。

サウロに、ガマリエルが言った「もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできない・・・。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者にな」ると警告されていた通り、教会に対する迫害は神へのものであり、自らを「神に敵対する者」とする恐るべき罪に気付かせた。

 26章9節 「実は・・・、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えて【私の義務と思い込んで】」いた彼に、とんでもない大誤算だったと。
 教会撲滅こそ神の心と信じ、ここに命を懸けていたのだから、彼の衝撃たるや尋常ではない。
 サウロのその心が如何に衝撃的だったことか!! 9章6節a 詳訳 「彼は震え驚きながら尋ねた。『主よ、あなたは私がどうすることをお望みなのですか。』すると『立って町に入りなさい。そうすれば、為すべきことが告げられる』」とあり、ガラテヤ1章13、14節 「・・・はるかにユダヤ教に進んでおり・・・人一倍熱心」だったのだから当然の恐れ。彼は回心20年後、第一コリント15章8~10節 「最後に、月足らず【死産】で生まれた者のような私にも現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であり・・・」、それから5年後、エペソ3章8節 「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私」、更に3年後、第一テモテ1章15節 「私はその罪人のかしら」と、罪の自覚がより一層深くされていく。
 彼は折に触れて、同13節 「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました」と証しをし、感恩の情に生き続け、殉教死に至るまで自覚をより鮮明にし続けた。

② 罪をはっきりと自覚させ、サウロに、5節 「主よ、あなたはどなたですか」と言わせた主の愛。

 サウロは4節、「なぜわたしを迫害するのか」と自分に語られるお方を「あなたはどなたですか」と尋ねてはいるが、26章9節 「実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反抗すべき」と認識して教会を迫害していたのだから、「なぜわたしを迫害するのか」と言われた時、直ちにそのお方はイエスだと分かった。ここでは再確認の為なのだ。
 教会への迫害を「わたしを」、26章14節b 「とげの付いた棒を蹴るのは、あなたに【とって】は痛い」との無私の愛。
 サウロは、イエスを「主」と認めて平伏させられたのだ。既に神に対して大罪を犯していたと分かった今、躊躇ためらっている猶予はないとし、主を、預言され続けてきた《 救い主だと直ちにお認めし 》議員としての結果を恐れず、「主よ」と自らを明け渡して、しもべの位置に身を委ねた。

※ 第二コリント5章14、15節 「一人の人がすべての人のために死んだ以上・・・もはや自分のためにではなく・・・死んでよみがえった方のために生きる」サウロに導かれた主に、私たちもとの決意を!!

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