元旦礼拝


ヨハネの黙示録22章6~11節

 年頭に当たり、私たちは、迫害下でパトモス島に流刑され、この黙示録の記録を委ねられた使徒ヨハネが、8節 「これらのことを聞き、また見たのは、私ヨハネである。私は、聞いたり見たりした後に、これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした」、《 主への畏敬の念をもって 》礼拝をお捧げしたい。
 実際ヨハネが礼拝を捧げようとした時、御使いから※9節 「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい」と戒められ正されたのだが、恐らく、ヨハネが《 聞かされ見せられた新天新地の壮大なビジョンに強烈なインパクトを 》受けて、御使いを主と勘違いしたのだろうが、これは、事実 衝撃を受けて、彼は主を畏れたからなのだ。私たちはヨハネを通して今、8節 「これらのことを聞き、また見」ているのだが、ヨハネ同様の衝撃を感じ、主の聖前に平伏す感動があるだろうか?
 彼の衝撃は※1章17~20節で、主の眩まばゆいばかりの顕現を受けて命じられたことを書き終えつつある時のことだった。
 「この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。『恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。それゆえ、あなたが見たこと、今あること、この後のち起ころうとしていることを書き記せ・・・」という大任を果たし終えた、正にこの時。

 今朝、この時、直接的に黙示録を指して、7節で主ご自身が「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸い」、10節で御使いが「この書の預言のことばを封じてはなりません」と言われたおことばに注目したい!!

① 「預言のことばを守る、封じてはなりません」とは?

 「守る【心に留める・保ち続ける】」、「封じ【秘密・封印・隠す・差し控え】てはなりません」であるが、一旦神のことばが語られたなら、神のそのみことばに対する《 姿勢の誠実さ、忠実さ、真面目さ、光への正直さ 》が問われているのだ。
 ローマ2章17~23節 「あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っている」に通じた警鐘なのだ。
 パリサイ人たちがここで糾弾されているのは、18節 「・・・大切なことをわきまえている【真に重要なものについての感覚を持っている】なら」、20節 「・・・自負しているなら」、21節〈どうして・・・しないのか〉、22節〈・・・するのか〉の霊的怠慢。
 現実、みことばを完璧に守られたのは主のみで、私たち罪人には実行不能だが、同8章3、4節 「・・・神はしてくださいました。・・・それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるため」との贖あがないによって可能。
 従って「守る」とは、この「御霊に従って歩む」真面目さがあるか? にある。「封じてはならない」とは、自分の肉の都合で意識的に封じ込める姿勢が問題であって、第一テサロニケ5章19節 「御霊を消してはいけません」、エペソ4章30節 「神の聖霊を悲しませてはいけません」なのだ。
 単純に “ みことばの光、指差しに、どれだけ正直なのか、誤魔化し二心はないのか、偽りはないのか、自らの内に巣食っている罪の性質に気付かせて頂いているにも拘らず憎みもせず放置し、自分の非より隣人の非を問題とし、一向に自らが変わろうとはしないことはどうなのか ” と。

 ヨハネは、この命令の具体的な指示として、11節 「不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた【純真でない】者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい【義とされ、神との正しい関係に導かれた】者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる【単に罪の赦しのみならず、罪性の清めを求める】者は、ますます聖なる者とならせなさい」と極めて厳格で少しの罪も譲歩させない姿勢が求められた。それを・・・
a. 教会建設に携わる使徒としての責任において。
 「不正を行わせ【たままにさせなさい】、汚れた者とならせ【たままにさせ】なさい、正しいことを行わせ【たままにさせ】、聖なる者とならせ【たままにさせ】なさい」に従う。牧会上、こうした行為について《 ままにさせなさい 》と言われることは、如何にも厳粛な指示である。
 自らが好んで選択する行為というものは《 悪であれ善であれ、その都度の選択を習慣化させているうちに、何時しか凝り固まった性質を造り上げ、悪の場合は誰が何と言おうと改められない状態 》に定着するが、するに任せよとは!!
b. 同時に、自ら神の子としての責任において。
 私は《 不正を行う者なのか正しい者?  汚れた者なのか聖なる者? 》の何れに身を定めて生きるキリスト者なのかを明確にして生きることを自らに徹底させるべきこと。お互い、自らがどの立場で主に仕える者であるかに関係なく、神の子として《 今日、心を定めて 》7、10節 「この書の預言のことばを守る者は幸いである」、「この書の預言のことばを封じてはなりません」と厳かに語られている聖霊の声に誠実な在り方をもってお応えすべきである。

② ここまでの厳密さをもって語られているのは何故?

a. 6節 「御使いは私に言った。『これらのことばは真実であり、信頼できます。』預言者たちに霊を授ける神である主は、御使いを遣わして・・・示された」から。
b. 7a、10b節 「わたしはすぐに来る」、「時が近いから」。

※ 世界が一変した今、ローマ13章11節 「眠りからさめるべき時刻が、もう来ている」の聖句を覚えて踏み出しを!!

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