使徒の働き9章1~9節
先週は、クリスマスを記念して、エチオピアの宦官が救いに導かれた時の聖句を《 イザヤ書53章 》と共に学んだ。
ⅰ 主は、8章32節b 「屠り場に引かれて行く羊」としての生涯を送るべく誕生されたこと。
この場面は、主が黙々と、十字架の処刑場ゴルゴダに向かわれる時の光景であると同時に、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶に産声を上げられた瞬間から始まった《 全ご生涯のお姿 》⇒ イザヤ53章2、3節。人々から容赦なくむしり取られる低く卑しい始まりを象徴する小枝のように生え出て、渇き切った干からびた土に育つ根が、命を保つために戦わなければならない弱くもろい根のように生きられ、人間的標準における見栄え良さ、魅力がなかった。蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていたご生涯を。
ⅱ 主は、32節c 「毛を刈る者の前で黙っている子羊のように、彼は口を開かない」生涯を送る為に誕生された。
受難は自発的で、忍耐強く受難した。自己弁護や抗議に口を開かなかった。へブル5章7~9節 「苦しみによって従順を学び、完全な者とされ」たご生涯を‼
ⅲ 主は、「屠り場に引かれて行く羊」、身代わりの羊《 罪人の罪を転嫁されて屠ほふられる無傷の羊 》として誕生された。
実際、イザヤ53章4~6節 「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った・・・私たちの背きのために刺され、私たちの咎とがのために砕かれた」が、誰もそれとは理解しなかった。
※ 神の途方もない恵み、聖父と御子との両者の愛(イザヤ53・10、11)の前にひれ伏し、聖餐式に臨んだ。
今朝は、1節 「なおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻」いて【息を荒立てながら/脅迫と殺害が彼の吸い込み吐き出す空気の本質を構成していた(ランゲ)】教会撲滅運動の首謀者サウロが復活の主の圧倒的な顕現によって歴史的回心に導かれた出来事に注目する。
サウロのこの回心は、その当時、誰もが想像し得えなかった劇的出来事‼ 何故なら、ガラテヤ1章13、14節のサウロ自身の証言で明白。「ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした」と。
それは、エルサレム最高法院(サンヘドリン)議員の一員であり、ユダヤ教徒内での評判は、5章34節 「民全体に尊敬されている律法の教師で、ガマリエルというパリサイ人」の門下生として優秀さで際立っていたから。教会では、回心した後ですら未だ、9章26節 「彼が弟子であるとは信じず、恐れていた」ことで明白。
3節 「ところが」に始まる展開は、サウロ個人と教会にとって、人知では到底測り得ない画期的出来事だったことを意味する。
サウロによる迫害は、ステパノの死を契機に、8章1節 「激しい迫害」へと勢いづかせたが、彼にとって皮肉なことに、教会には「使徒たち以外はみな・・・諸地方に散らされ」る機会を与え、福音をエルサレムから外に運ばせ、ピリポによるサマリア・エチオピア宣教へと。教会は迫害に屈するどころか燃えていくことに‼ その上で更に、「ところが」だった。今朝は、サウロの回心の記事から《 主と教会との関係 》に焦点を当てて、Message を。
① 迫害下に置かれた教会に対する主のみ思いについて。
a. 3節 「ところが」に秘められた主のみ思い。
迫害下の教会が出来ることは? と言えば、4章29、30節 「主よ。今、彼らの脅おびやかしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください」と、迫害に屈せずに、只管ひたすら、主の御心に明け渡し、聖霊のご指示を待つのみだった。仮に人間的恐怖心があったとしても、被害者意識に囚われずに、危機一髪の場面で、宣教が阻止されることにだけはならないようにとの魂への重荷があってのこと。
パウロが後、使徒として教会に召された時、ローマ12章14節 「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません」と勧めているが、自ら迫害者だった時、ステパノの最期に目撃した衝撃的な祈り、7章60節 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」が心に刺さったであろう、心に焼き付いて離れなかったであろう祈りを痛感してのことでは。
ユダヤ教徒の精神は、2節 「この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るため」という《 自分たちの信仰にそぐわない者たちを殺害することは義 》である故、祝福することは有り得なかったこと。
主は、為す術なく、一切聖霊に委ねて救霊の為に闘う教会に、ご自身のご計画をお持ちで立ち上がられるお方。
b. 4節 「・・・サウロ、なぜわたしを迫害するのか」、5節 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」に。
主は《 教会とは有機的な結合関係に在り、教会への迫害はわたしへのもの 》と宣言された(コロサイ1・18)。
主は《 教会への迫害を、全てご自身の痛手として感じ、ご自身の権威をもって全てを処理される 》お方。
② 迫害下における教会の主への在り方について。
2節 「この道【に属する者※18章25節 「主の道」 ⇒ 神が罪人の救いの為にと備えられ、従いさえすれば、そこに生きれば良いだけの道・主を信じることによって救うことを良しとされた道、キリストを信じる】の者でれば」とある。「この道の者でないのであれば」である限り、迫害の対象とはならずに済む人々が暗示されているのでは?
マタイ13章19~21節 「・・・岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」。
日頃から、肉を徹底的に扱って頂く信仰生活の真面目さにおいて、どうなのか? が肝要となる。
※ 迫害者サウロに強烈な光をもって顕現された《 教会の頭なる主は今も現に存在するお方 》、全的明け渡しをもって従いたい。
先週は、クリスマスを記念して、エチオピアの宦官が救いに導かれた時の聖句を《 イザヤ書53章 》と共に学んだ。
ⅰ 主は、8章32節b 「屠り場に引かれて行く羊」としての生涯を送るべく誕生されたこと。
この場面は、主が黙々と、十字架の処刑場ゴルゴダに向かわれる時の光景であると同時に、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶に産声を上げられた瞬間から始まった《 全ご生涯のお姿 》⇒ イザヤ53章2、3節。人々から容赦なくむしり取られる低く卑しい始まりを象徴する小枝のように生え出て、渇き切った干からびた土に育つ根が、命を保つために戦わなければならない弱くもろい根のように生きられ、人間的標準における見栄え良さ、魅力がなかった。蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていたご生涯を。
ⅱ 主は、32節c 「毛を刈る者の前で黙っている子羊のように、彼は口を開かない」生涯を送る為に誕生された。
受難は自発的で、忍耐強く受難した。自己弁護や抗議に口を開かなかった。へブル5章7~9節 「苦しみによって従順を学び、完全な者とされ」たご生涯を‼
ⅲ 主は、「屠り場に引かれて行く羊」、身代わりの羊《 罪人の罪を転嫁されて屠ほふられる無傷の羊 》として誕生された。
実際、イザヤ53章4~6節 「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った・・・私たちの背きのために刺され、私たちの咎とがのために砕かれた」が、誰もそれとは理解しなかった。
※ 神の途方もない恵み、聖父と御子との両者の愛(イザヤ53・10、11)の前にひれ伏し、聖餐式に臨んだ。
今朝は、1節 「なおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻」いて【息を荒立てながら/脅迫と殺害が彼の吸い込み吐き出す空気の本質を構成していた(ランゲ)】教会撲滅運動の首謀者サウロが復活の主の圧倒的な顕現によって歴史的回心に導かれた出来事に注目する。
サウロのこの回心は、その当時、誰もが想像し得えなかった劇的出来事‼ 何故なら、ガラテヤ1章13、14節のサウロ自身の証言で明白。「ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした」と。
それは、エルサレム最高法院(サンヘドリン)議員の一員であり、ユダヤ教徒内での評判は、5章34節 「民全体に尊敬されている律法の教師で、ガマリエルというパリサイ人」の門下生として優秀さで際立っていたから。教会では、回心した後ですら未だ、9章26節 「彼が弟子であるとは信じず、恐れていた」ことで明白。
3節 「ところが」に始まる展開は、サウロ個人と教会にとって、人知では到底測り得ない画期的出来事だったことを意味する。
サウロによる迫害は、ステパノの死を契機に、8章1節 「激しい迫害」へと勢いづかせたが、彼にとって皮肉なことに、教会には「使徒たち以外はみな・・・諸地方に散らされ」る機会を与え、福音をエルサレムから外に運ばせ、ピリポによるサマリア・エチオピア宣教へと。教会は迫害に屈するどころか燃えていくことに‼ その上で更に、「ところが」だった。今朝は、サウロの回心の記事から《 主と教会との関係 》に焦点を当てて、Message を。
① 迫害下に置かれた教会に対する主のみ思いについて。
a. 3節 「ところが」に秘められた主のみ思い。
迫害下の教会が出来ることは? と言えば、4章29、30節 「主よ。今、彼らの脅おびやかしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください」と、迫害に屈せずに、只管ひたすら、主の御心に明け渡し、聖霊のご指示を待つのみだった。仮に人間的恐怖心があったとしても、被害者意識に囚われずに、危機一髪の場面で、宣教が阻止されることにだけはならないようにとの魂への重荷があってのこと。
パウロが後、使徒として教会に召された時、ローマ12章14節 「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません」と勧めているが、自ら迫害者だった時、ステパノの最期に目撃した衝撃的な祈り、7章60節 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」が心に刺さったであろう、心に焼き付いて離れなかったであろう祈りを痛感してのことでは。
ユダヤ教徒の精神は、2節 「この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るため」という《 自分たちの信仰にそぐわない者たちを殺害することは義 》である故、祝福することは有り得なかったこと。
主は、為す術なく、一切聖霊に委ねて救霊の為に闘う教会に、ご自身のご計画をお持ちで立ち上がられるお方。
b. 4節 「・・・サウロ、なぜわたしを迫害するのか」、5節 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」に。
主は《 教会とは有機的な結合関係に在り、教会への迫害はわたしへのもの 》と宣言された(コロサイ1・18)。
主は《 教会への迫害を、全てご自身の痛手として感じ、ご自身の権威をもって全てを処理される 》お方。
② 迫害下における教会の主への在り方について。
2節 「この道【に属する者※18章25節 「主の道」 ⇒ 神が罪人の救いの為にと備えられ、従いさえすれば、そこに生きれば良いだけの道・主を信じることによって救うことを良しとされた道、キリストを信じる】の者でれば」とある。「この道の者でないのであれば」である限り、迫害の対象とはならずに済む人々が暗示されているのでは?
マタイ13章19~21節 「・・・岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」。
日頃から、肉を徹底的に扱って頂く信仰生活の真面目さにおいて、どうなのか? が肝要となる。
※ 迫害者サウロに強烈な光をもって顕現された《 教会の頭なる主は今も現に存在するお方 》、全的明け渡しをもって従いたい。
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