クリスマス記念礼拝『使徒の働き』より 23


使徒の働き8章26~38節

 先週は、サマリアに豊かな結実を見るや、主の使いから26節 「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい」を受けて、直ちに従ったピリポの信仰に学んだ。

ⅰ 聖霊への明け渡しの信仰。
 ペテロとヨハネのテコ入れによって働きはいよいよこれからという時、主の使いから耳を疑うような指示が出されたピリポ。何故今? しかもその指示は極めて厳密。「『・・・エルサレムからガザに下る道に出なさい。』そこは荒野」と、ガザへの道には何本かあることから、どの道を通ってなのかまでもの指示。取りも直さず、27、28節 「・・・エチオピア人の女王カンダケの高官」を導く為に他ならないからだが。
 ピリポは、27節 「そこで」と、即刻従ったのだ。
 この出来事を、創世記22章2節《 アブラハムのイサク献上時の信仰 》と重ねた。仮に内的葛藤があったとしても、不承不承をもっての服従ではない限り問題はない。神には従うべきとする《 神への絶対的信頼をもって生きることこそ本分とする信仰 》によるならば、評価されるべきだから。
 ピリポのこの姿勢にこそテスト済みの信仰、諸局面での肉の処理によって聖霊の満たしに与り続ける忠実さを見る。

ⅱ そうした聖霊経験に伴う聖書的知識の豊かさ。
 35節 「ピリポは・・・イエスの福音を彼に伝えた」結果、宦官かんがんは直ちに救いに与ったのだ。引用し得たことは幸い。

※ もしピリポが躊躇して従わなかったならば、アフリカ宣教はどの様に? 聖霊の働きに唯一障害物となる肉を処理してのみ福音を運ぶ器とされる、との自覚を新たにしたいと。


 今朝はクリスマスを記念して、29節 「御霊がピリポに『近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい』と言われた」時、ピリポが行って見ると、30節 「イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、『あなたは、読んでいることが分かりますか』」と始まった《 ピリポの個人伝道、即ちエチオピアの宦官を救いに導いた時の 》聖句を Message としたい。
 宦官が読んでいた《 イザヤ書53章7、8節 》の聖句。そして宦官が直ちにピリポに、34節 「お尋ねしますが、預言者はだれについてこう言っているのですか・・・」と説き明かしを求めた時、35節 「ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた」聖句。
 ピリポの聖書的知識は豊かで、宦官から質問されたイザヤ書を含む旧約聖書を「イエスの福音」と理解し、説き明かすことが出来た ⇒ ローマ1章2~4節 「この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです」。アリス・メリー・ホッヂキン著『六十六巻のキリスト』があるが、バークレー・F・バックストンが、彼女のこの書は《 旧約新約 聖書全巻を一貫して、キリストの栄光と救いとを見る助けとなる貴重な書 》だと、推奨している。
 それもその筈、主がヨハネ5章39節 「その聖書は、わたしについて証ししているものです」と言っておられるからだ。ピリポはしっかりこの事実を理解して取り次いだのだ。

この聖句から《 クリスマスに何を記念 》すべき?

① 主は、32節b 「屠り場に引かれて行く羊」としての生涯を送るべく誕生された。

 子羊として「屠ほふり場に引かれて行く」この場面は、主が、ご自身を妬むエルサレム最高法院の議員の手によって激しい拷問を受けられつつも、黙々と十字架の処刑場ゴルゴダに向かわれる時の光景である。しかし、主のご受難を伝える光景は、ご最期だけのお姿ではなかったこと、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶に産声を上げられた瞬間から始まった《 全ご生涯のお姿 》だったことを覚えるべきなのだ。
 イザヤ53章2、3節 「彼は主の前に、ひこばえ【小枝 ⇒ 木の幹から養分を取る幼い小枝に過ぎない。それらが木の寿命を枯渇させないように、人々は容赦なくむしり取る。木を保存する為に小枝は断ち切られる。しもべの生涯の低く卑しい始まりを一層強調する役割を象徴する小枝】のように生え出た。砂漠の地から出た根【渇き切った干からびた土に育つ根が、命を保つために戦わなければならない、猛烈にあがかなければならない弱くもろい根に擬なぞらえた。レバノンの肥沃な森でそびえ立つ誇り高き杉の木とは打って変わった小枝】のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない【人間的標準における見栄え良さ、魅力がなかった】。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知って(同1章5、6節)いた。人が顔を背ける【嫌悪感を抱かれる】ほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」と描写されている。

② 主は、32節c 「毛を刈る者の前で黙っている子羊のように、彼は口を開かない」生涯を送る為に誕生された。

 イザヤ53章7、8節 「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。・・・毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」ことについて、聖書学者エドワード・J・ヤングの説明を引用したい。それは、“ 彼は痛めつけられ【出エジプト3章7節 「追い立てる者 ⇒ 民に苦労させ、叫び出させる」の意】、そして虐しいたげられている間、彼は自ら自発的に苦しみを受けて口を開かなかった。受難は自発的で、忍耐強く受難した。自己弁護や抗議に口を開かなかった ” へブル5章7~9節 「苦しみによって従順を学び、完全な者とされ」たご生涯を‼

③ 主は、「屠り場に引かれて行く羊」、身代わりの羊《 罪人の罪を転嫁されて屠られる無傷の羊 》として誕生された。

 実際、イザヤ53章4~6節 「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎とがのために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた・・・」、何という破廉恥な誤解であること‼ この破廉恥な誤解は、神の途方もない恵み【同10節bの聖父と、10c~11節の御子との両者の愛】への侮りなのだ。

※ 聖父と御子の愛の前にひれ伏し、聖餐式に臨みたい。

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