使徒の働き8章4~25節
先週は、8章1節c 「その日、エルサレムの教会に」対して起こった「激しい迫害」について考えた。
ⅰ 先ず、その迫害の契機について:
ステパノの妥協のない確固たる信仰《 7章51~53節の辛辣とも思われる糾弾は、実はその直後、59、60節で迫害者の為に祈る愛から出たもの 》。
それは、ステパノが、歯ぎしりして人々が迫って来る極限状態で、7章55節 「聖霊に満たされ、じっと天を見つめ」、「神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見」ることの出来る《 主との揺るがない関係 》によっている。
ⅱ 迫害の意義について:
教会は厳しい打撃を経験する中、8章2節、ユダヤの法律で禁じている《 犯罪者と裁かれた者の埋葬 》を大胆にも行い、ステパノの殉教を不当だと証言する機会としたこと。
1節d 「使徒たち以外はみな【ヘレニストを標的とした為】、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた」、4節 「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩」き、遂に、主の語られた※1章8節 「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土」と、宣教拡大に向けて動き出す機会としたこと。
教会は、世の勢力が撲滅を謀ったとしても、消滅するどころか、「散らされた人たちは・・・福音を伝えながら巡り歩いた」と、かえって福音宣教の輪を拡大していくことになる。
※ 教会のその強さは、第一ペテロ4章14節 「・・・栄光の御霊、すなわち神の御霊が・・・とどまってくださるから」との事実にあると覚え、使徒たちの信仰に励まされてお互いもこの道をと!!
今朝は、教会が《 まさか迫害によってとは!! と、予想だにしなかった方法で 》主の宣言、「地の果てまで、わたしの証人となります」の実現に向かって喜びつつ動き出すや、又しても宣教の働きを阻止し兼ねない人として登場する、9節 「シモン」に的を絞り、互いのキリスト信仰を吟味したい。
又してもとは、教会が、4章32~37節 「・・・彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。・・・その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。・・・バルナバ・・・も、・・・使徒たちの足もとに置いた」という互いの間における愛の交わりに満たされるや、5章1節 「ところが」と発覚した《 アナニアとサッピラの偽善的 》出来事に次いでのことだから。
それは教会内に発生した、5章3節 「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き」、4節 「人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」、9節 「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか」と彼らのあからさまな《 聖霊をもてあそぶ侮り、欺きによる虚偽・偽善 》が直ちに裁かれた出来事である。
このことは本来教会の汚点ともなり兼ねない事件だったが、むしろ、彼らが直ちに裁かれたことによって、5、11節 「これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じ」、その結果、13、14節 「・・・民は彼らを尊敬していた。そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった」という《 教会の健全性が維持され、否、更なる飛躍のために 》用いられることとなり、教会は前進した。
従って、今朝の記事でも又しても、教会の祝福に伴って生じる《 サタンの挑戦に断固とした、毅然とした態度で臨まなければならなかった使徒たちの闘い 》に注目する。
それは前回同様、パウロが教会建設で取り組まなければならなくされていた課題であるが、第一コリント5章6~8節《 古いパン種の除去 》についてである。
迫害によって散らされた人たちの内、5節 「ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた」結果、6~8節を見ると、町の人々が関心を抱くようになり、町には大きな喜びが起こり、遂には、12節 「人々は、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えたことを信じて、男も女もバプテスマを受けた」。この時、9節a 「ところで」と、その人々に紛れ込んで洗礼を受けた人にシモン【9a'~11 彼が魔術者であることで人々から「この人こそ、『大能』と呼ばれる、神の力だ」と言われていた】がいて、13節 「いつもピリポにつき従って、しるしと大いなる奇跡が行われるのを見ては驚いていた」。
ここまでの記事では、シモンが何をどのように悔い改めて主に立ち返ったのか? 実際、洗礼を受けるまで魔術を行っては「自分は偉大な者だと話していた」とすれば、相当の罪の告白が必要だったのではと考えられるが。14節以降、エルサレムから派遣されることになったペテロとヨハネによる、シモンへの手厳しい扱いを見る限り、信仰を持ったとは言え、生き方の方向転換がないことが分かる。
いつも付き纏われていたピリポは、シモンをどのように見、考えていたのか? について知る由もないが、「サマリアの人々が神のことばを受け入れた」と聞いた使徒たちの働きに委ねていたのでは? 使徒たちによるテコ入れがなされたことで窺うかがえる ⇒ 15~17節にある《 入信後の聖霊経験の促うながし 》である。
シモンに、信仰を持ったとは言え、救いに与っているとは見做されない状態のあることに学んで注意したい。
その特色は、信仰後も信仰前と何ら変わらないことにある。魔術師シモンは、未だに魔術師のままでしかない事実。
表面上、行為としての魔術は捨てたかも知れないが、18、19節に見る※9節 「自分は偉大な者だと」する自己拡大に生きる姿勢、聖霊に用いられる生活ではなく、自分の栄誉を求めるがために聖霊を利用しようとする肉的野心、貪欲。シモンが生来のままでしかないのは?
① 21節 「おまえの心が神の前に正しくない」こと。
ペテロのこの指摘は、彼の生きる動機の不純さへのもの。神に認められることには関心がなく、只管ひたすら、人からの称賛、注目の的になることにしか関心がない。従って、23節 詳訳 「苦い胆汁の中に居り、又不義によって鍛えられた【魂を縛る】かせの中にいるのが見えます」とある。
② 24節 「・・・私のために主に祈ってください」に見る自己本位。
出エジプト10章12~17節のファラオに同様。
※ シモンに残された唯一の救いの道は、22節 「だから、この悪事を悔い改めて、主に祈れ」に。ペテロの洞察は「もしかしたら・・・赦されるかもしれない」で、彼の不確かさへの言及と覚え、自戒を!!
この記事へのコメント