使徒の働き7章1~ 2a、51~53節
先週は、教会の実務に携わる7人が選出された際、筆頭に選ばれたステパノが、8節の故に、いわゆる知識階級の人々から議論を持ち込まれて最高法院に連行され、遂に教会からの初めての殉教者となった場面に注目した。
その引き金は、彼らのよく知るユダヤ人の歴史を紐解きながら、キリスト殺害の罪の悔い改めを迫り、51~53節 「うなじを固くする・・・人たち」と糾弾したことだった。“ 殉教者は教会の種である ” の如く、彼の最期を目撃した※7章58節 「サウロ」が後、宣教者パウロとなったことにその証を見たが、ステパノの光を放ったその最期とは・・・
ⅰ 6章10節 「しかし、彼が語るときの知恵と御霊に対抗することはできなかった」為、11~14節の反撃【偽証人を立て、民衆とエルサレム議会を扇動し、ステパノを裁きの座に立たせる】を受けていた時の※15節 「彼の顔は御使いの顔のように見えた」輝き!!
ⅱ 遂に、彼の説教で心刺された告発者たちが、7章54節 「はらわたが煮え返る思いで」彼に迫り、遂に58節 「彼を町の外に追い出して、石を投げつけた」時の輝き!!
59、60節 「・・・そして、ひざまずいて大声で叫んだ。『主よ、この罪を彼らに負わせないでください。』」の迫害者への祈りであるが、主が十字架に処刑されるや否や、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と、罵ののしり嘲あざける全ての人々の為に祈られた祈りそのもの。ステパノは実に試験済みの御霊の人だった。
※ 彼の輝きは、聖霊の人の持つ円熟にあった点に希望をと!!
今朝は、ステパノが殉教死を招いた説教に注目したい。
ステパノの説教は、1節 「大祭司は、『そのとおりなのか』と尋ねた」ことに機会を得て為された《 迫害者からの三つの告発に対応してのもの 》だった。
① ステパノの説教に見る彼の人となり。
ステパノの答弁には何一つ被害者意識・敵対意識はなく、むしろ告発する人々への呼び掛けが、2節a 「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください」と、彼らに対し同胞のユダヤ人であるとの尊敬の意を表す礼儀正しさをもって臨んだ。
この心の姿勢こそが、彼の最期を、60節 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」の祈りで閉じさせている所以ゆえんである。
従って、ここで執り行われた裁判は、彼らの目指すステパノ断罪の場とはならず、むしろ裁かれるステパノによって《 告発者たちが目の敵にしているキリスト信仰の真実、教会の存在とその働きが、如何に聖書に準じて成就した真理であるか 》の弁明、究極、告発者を神に立ち返らせる為の道を備える厳粛な機会の場となったのを見る。
マタイ10章16~20節 「詳訳 ※18b、19 証しを立てる証人となる為です。人々があなたがたを引き渡す時、あなたがたはどのように何を語るかを心配してはならない。あなたがたの言うことはその時【その瞬間に】あたえられるからである/20 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です」。
② 三つの告発とその応え:
a. 6章11節 「そこで、彼らはある人たちをそそのかして、『私たちは、彼がモーセと神を冒涜することばを語るのを聞いた』と言わせた」に対して。
7章2b~37節で「モーセと神を冒涜する」どころか【モーセを尊重するとして、彼の※37節 「私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる」との予告を引用した。そしてその預言者こそイエスであり、このお方に従って生きることこそ】モーセと神を尊敬している証だと反論。
この事実を明示する為に、彼は冒頭、2節b 「私たちの父アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れ」と切り出し、聞く者の熟知しているユダヤ人の歴史を堂々と紐解き、説得に迫った。
b. 6章13節 「そして偽りの証人たちを立てて言わせた。『この人は、この聖なる所と律法に逆らうことばを語るのをやめません。』」に対して。
7章44~50節で「※44、45 私たちの先祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。・・・私たちの先祖たちは、この幕屋を受け継いで・・・ ※46 ダビデは・・・幕屋のとどまるところを求めました。※47 そして、ソロモンが神のために家【神殿】を建てました」と、しかし遂には「※48 いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです」と、イザヤ66章1、2節の預言者の言葉を引用することで《 あくまでも形にこだわる彼らを牽制し、真の礼拝とは ⇒ ヨハネ4章21~24 》と反論。
c. 6章14節 「『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました」に対して。
7章38~43節で、彼は真っ向からこの事実を否定すべく彼らの勘違いを正して、「※38 ・・・荒野の集会【神の教会】にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました」と言って、モーセの律法を無視して侮るどころか重んじていると説明した。むしろ、侮ってきたのは、39節 「彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って」を引き起こして神を冒涜した「私たちの先祖たち」こそ、咎められなければならないと彼らを牽制。
③ 説教の締め括りに《 告発者を愛する重荷から 》急きょ、渾身の力を振り絞って、7章51~53節 「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです」と糾弾!!
裁判の様子から、何をどう語ろうと到底受け入れられそうにもない雰囲気を察知してのことだったのでは? その反撃を予知した上での命がけの説教だったに違いない。しかし弟子たちの姿勢は皆、4章19、20節 「・・・神の御前に・・・判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません」にあったから。
※ 究極、隣人への責任ある態度をもっての日々を!!
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