聖日礼拝『使徒の働き』より 17


使徒の働き6章1~7節 17

 先週は、教会が、アナニアとサッピラの虚偽事件が起こった時、それによって汚されずに、むしろ神の聖が明らかにされ、モーセをして「近寄って、この大いなる光景を見よう」と思わせた《 燃える柴的存在 》となっていく様から三点を!!

ⅰ 燃える教会の覚悟:
 妬みを買い、留置され尋問を受ける(ヨハネ15章20節)。
 17、18節 「ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちに手をかけて捕らえ、彼らを公の留置場に入れた」、27、28節 「最高法院の中に立たせると、大祭司は使徒たちを尋問した」、33節 「彼らは怒り狂い、使徒たちを殺そうと考えた」と。

ⅱ 燃える教会への保証:
 19、20節 「ところが、夜、主の使いが牢の戸を開け、彼らを連れ出し、『行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい』と言った」。御使いの派遣は、極めて現実的であり、今もその都度、必要に応えるべく配置されている。又、33節で殺意を抱かれた時でさえ、34節 「ところが」と、ガマリエルの賢明な指導によって直ちに釈放されることに。

ⅲ 燃える教会の取り続けるべき姿勢:
 教会は如何なる場合にも、従うべきお方は主であり、何をもって喜びとしているかを明確にし、人の反応を恐れずに即刻、躊躇せずに主に従わせられていった。

※ 教会・主のみ体に一肢一肢であるお互いが、聖霊に満たされて《 モーセの見た燃える柴 》となっているならば、聖霊は全責任を持って、ご自身の働きを進められるとの期待をと!!


 今朝は、5章で発生した〈善を装って不実を行ったアナニアとサッピラの聖霊を侮った罪が裁かれた出来事〉に次ぎ、1節a 「弟子の数が増えるにつれて」と、教会の成長拡大に伴って、1節b 「ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た」ことから、その対応の必要が迫られた時、教会はどうしたか? に注目する。
 この「ギリシア語を使うユダヤ人」とは、ローマ帝国内に在住していたヘレニストと呼ばれるユダヤ人で、ギリシアで生まれ、ギリシア文化をしっかり吸収し、生活していた人々。
 一方「ヘブル語を使うユダヤ人」とは、教会では多数を占めていたパレスチナ在住のユダヤ人である。
 こうした状況下での「苦情」が、ヘレニストたちによる申し立てだったことから、この「毎日の配給」に関する人手不足状態から発生した不備【悪意によるものではないだろう】を軽く見過ごせないとする根に〈差別的処遇では? と抱く疑念〉を火種としたのでは? 教会が成長していく過程では必然的なことであって、不思議に思うべきでもなく恐れる必要のないこと。問題は、こうした事態をどのように処理していくのが教会なのかということである。
 使徒たちが※2~4節で「七人選びなさい。その人たちにこの務めを・・・、私たちは・・・専念します」と提案し、教会は、5、6節 「喜んで受け入れ」何一つ混乱もなく整然と解決を!!
 その証が、7節 「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った」ことにある。
 ある注解書では、この「大祭司たちが大勢、次々と信仰に入った」ことこそ使徒による奇跡のうちで最大のものであると言ったクラークの言葉を伝え、それは主に対して極めて反撃的人々であり、主を殺害した張本人たちだったからだと。

教会の対応に注目:

① 使徒たちの提案に従って選ばれるべき人物には、御心に叶った条件 ⇒ 3節 「御霊と知恵に満ちた」人だったこと。

 御霊を自らの主として迎えて生活している人のこと。
 極めて地上的な生活の衣食住の全て、家庭生活における最も近い隣人との関係は? 社会・学校で接する隣人との関係は? あらゆる場面での意思決定を自分の願いではなく、聖霊ご自身の願いを知り、悉く聖霊の意図されるところに従う位置に自らを置いて生活する人。
 この条件は、主のみ体に連なる全てのキリスト者に求められる、或いは、全てのキリスト者が経験すべき霊的状態であるので、特別な条件ではないとも言える。
 ここで厳密な意味で「御霊に満ちた」人と言っているのは、霊的成長段階がある中で、ガラテヤ5章16節 「御霊によって歩み」、18節 「御霊によって導かれている」、25節 「御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか」という指導に従い始めて、熟練している人のことである。へブル6章1節 詳訳 「キリストの教えの初歩を後にして前進し、霊的成熟という面で完全・完成を目指して着実に進もう」に従って、霊的な生活を衣食住の生活面で実践している人ということである。
 その示唆は、3節 「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」にある。
 先ず、御霊に満たされた人として、「知恵に満ちた」人とされていることである。この「知恵」とは、物事を筋道立てて考える心の動き、物事の道理を正しく判断し、適切に処理する能力であるが、聖書的知識をもって判断し処理する能力である。聖霊は上よりの知恵をもって導かれるから。
 と同時に、「評判の良い人」とは、詳訳で「善良な保証済みの性格・評判」とあり、扱いを避けずに、むしろ積極的にお扱いに甘んじる姿勢。即ち、何らかの問題が発生するその都度、自分自身が扱われる道を選択し続ける姿勢である。

② 教会は、5節 「信仰と聖霊に満ちた人」七人を選び、6節 「使徒たちの前に立たせた。使徒たちは祈って、彼らの上に手を置いた」。

 七人は全て、ギリシア名を持つ人々だった。
 最後に名を連ねているニコラオだけが出身地の明記があることから、彼だけが異邦人で、他は皆ユダヤ人となるが、皆、苦情を申し立てたヘレニストたちである。
 モルガンは “ 教会は呟つぶやきによって弱くなったのではなく、かえって、寡婦らが無視されたと苦情を申し立てたヘレニストの中から選ばれるという、人情味豊かな立派な好意によって強さを示した ” と言っている。

※ 聖霊の満たしに生きる教会において聖霊の働きは顕著!!


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