使徒の働き5章12~42節
先週は、4章32~37節にみる聖霊に満たされたエルサレム教会に、5章1節 「ところが」と起こった《 アナニアとサッピラ事件 》から、教会の証しが侮られ兼ねない中、むしろ聖霊が、11節の圧倒的な聖をもって克服されたことに注目!!
エルサレム教会には、4章33節 「使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし」たことに結果する「大きな恵みが彼ら全員の上にあった」。即ち、主の復活の証しは、信仰告白するも《 未だに残留している自己愛 》という肉の性質・古い人・生来の罪深い性質を扱い《 赦しと清めによる 》その都度の聖霊の満たしによる交わりを生んだのだと。
ところが、肉の扱いを疎かにしたことによって発生したのが《 アナニアとサッピラ事件 》!! このことから・・・
ⅰ 聖霊は罪をうやむやなままには放置せず、明るみにすることを以って、ご自身の《 聖 》を証しされて栄光・現在を明らかにされるお方であること ⇒ 第一コリント14章24、25節。
彼ら夫婦の罪の本質は、3、4、9節《 聖霊を欺く罪 》。バルナバの存在によって誘発された罪、彼への称賛を同様に得たいだけのことで、教会の必要を思ってではないことが暴露。
ⅱ 聖霊を侮ることへの警告
5、10節 「アナニアは・・・彼女は・・・息絶えた」とは厳粛な結末。彼らは、9節 「心を合わせ」、隠れて秘かに協議したことが暴かれたことへのショック死である。
※ 11節、教会は神への畏怖に満たされた!! 黙示録2章1節 「星を握る方・・・燭台の間を歩く方」主は、教会の悪を扱い、聖霊によって日夜働かれる聖なるお方との畏れをと!!
今朝は、主を信じる群れが、これまで、2章41節 「三千人ほどが仲間に加えられた」、4章23節 「二人は仲間のところに」と言われていたのが、5章11節で初めて「教会」と呼ばれるようになっていることに心を留めつつ、アナニアとサッピラ事件によって生じた「大きな恐れ」によって《 群れを目の敵に宣教への締め付けを謀る最高法院に立ち向かう教会の姿 》に注目したい。
前回、アナニアとサッピラ事件によって、群れは御名が汚されるどころか、神の聖なるご性質が明らかにされる結果を得て、むしろ神への畏怖の念が起こったと学んだが、教会は清められることによって教会の存続意義をいよいよ明確にしていたことを証ししているのを見る。
それを、13、14節 「ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた」に先ず見る。2章47節には「神を賛美し、民全体から好意を持たれていた」ともあるが、大勢で神への賛美をもって集まっている弟子たちを見て、敬意を表する程の関心を寄せてはいるが、「あえて」と、単なる好奇心・いい加減さをもってしては加わることは出来ないとする神への畏れである。
その反面、14節 「主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった」。それは、迫害を受けながらも何故、彼らは喜んでいるのか? 自らを差し出して助け合うのは? その前後に、現実的なわざがある。12節 「使徒たちの手により・・・」、15、16節 「・・・また、エルサレム付近の町々から大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を連れて集まって来た」と。
教会が罪と互いの肉を処理し続けるところに、聖霊の火は燃え、その時、正に、聖霊は魂を主に惹き付けるお方。
出エジプト3章1~6節で、神の山ホレブで「燃える炎」の中に居られる主に出会ったモーセの感動的出来事に顕著!!
「モーセは思った。『近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。』主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった」という光景!!
① 燃える教会の覚悟:
妬みを買い、留置され尋問を受ける(ヨハネ15章20節)。
17、18節 「そこで、大祭司とその仲間たち、すなわちサドカイ派の者たちはみな、ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちに手をかけて捕らえ、彼らを公の留置場に入れた」、27、28節 「彼らが使徒たちを連れて来て最高法院の中に立たせると、大祭司は使徒たちを尋問した。『あの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか。それなのに、何ということだ。おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった。そして、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしている。』」、33節 「これを聞いて、彼らは怒り狂い、使徒たちを殺そうと考えた」。
② 燃える教会への保証:
19、20節 「ところが、夜、主の使いが牢の戸を開け、彼らを連れ出し、『行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい』と言った」。
へブル1章14節 「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか」。御使いの派遣は、極めて現実的であり、今もその都度、必要に応えるべく配置されている。
又、33節で殺意を抱かれた時でさえ、34節 「ところが」と、ガマリエル【と言えば、パウロの師匠】の賢明な指導【35~39節、その計画や行動が人間から? 神から? の何れかの判断に誤りがあってはならないから、静観するように】が議員たちに受け入れられ、直ちに釈放されることに。
③ 燃える教会の取り続けるべき姿勢:
21節a 「彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた」、29~32節 「しかし、ペテロと使徒たちは答えた。『人に従うより、神に従うべきです・・・』」、41、42節 「使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った。そして毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめなかった」。教会は如何なる場合にも、従うべきお方は主であると明確にし、何をもって喜びとしているかを明確にしているが故に、人の反応を恐れずに即刻、躊躇せずに主に従わせられている。
※ 教会・主のみ体に一肢一肢であるお互いが、聖霊に満たされて《 モーセの見た燃える柴 》となっているならば、聖霊は全責任を持って、ご自身の働きを進められるとの期待を!!
先週は、4章32~37節にみる聖霊に満たされたエルサレム教会に、5章1節 「ところが」と起こった《 アナニアとサッピラ事件 》から、教会の証しが侮られ兼ねない中、むしろ聖霊が、11節の圧倒的な聖をもって克服されたことに注目!!
エルサレム教会には、4章33節 「使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし」たことに結果する「大きな恵みが彼ら全員の上にあった」。即ち、主の復活の証しは、信仰告白するも《 未だに残留している自己愛 》という肉の性質・古い人・生来の罪深い性質を扱い《 赦しと清めによる 》その都度の聖霊の満たしによる交わりを生んだのだと。
ところが、肉の扱いを疎かにしたことによって発生したのが《 アナニアとサッピラ事件 》!! このことから・・・
ⅰ 聖霊は罪をうやむやなままには放置せず、明るみにすることを以って、ご自身の《 聖 》を証しされて栄光・現在を明らかにされるお方であること ⇒ 第一コリント14章24、25節。
彼ら夫婦の罪の本質は、3、4、9節《 聖霊を欺く罪 》。バルナバの存在によって誘発された罪、彼への称賛を同様に得たいだけのことで、教会の必要を思ってではないことが暴露。
ⅱ 聖霊を侮ることへの警告
5、10節 「アナニアは・・・彼女は・・・息絶えた」とは厳粛な結末。彼らは、9節 「心を合わせ」、隠れて秘かに協議したことが暴かれたことへのショック死である。
※ 11節、教会は神への畏怖に満たされた!! 黙示録2章1節 「星を握る方・・・燭台の間を歩く方」主は、教会の悪を扱い、聖霊によって日夜働かれる聖なるお方との畏れをと!!
今朝は、主を信じる群れが、これまで、2章41節 「三千人ほどが仲間に加えられた」、4章23節 「二人は仲間のところに」と言われていたのが、5章11節で初めて「教会」と呼ばれるようになっていることに心を留めつつ、アナニアとサッピラ事件によって生じた「大きな恐れ」によって《 群れを目の敵に宣教への締め付けを謀る最高法院に立ち向かう教会の姿 》に注目したい。
前回、アナニアとサッピラ事件によって、群れは御名が汚されるどころか、神の聖なるご性質が明らかにされる結果を得て、むしろ神への畏怖の念が起こったと学んだが、教会は清められることによって教会の存続意義をいよいよ明確にしていたことを証ししているのを見る。
それを、13、14節 「ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた」に先ず見る。2章47節には「神を賛美し、民全体から好意を持たれていた」ともあるが、大勢で神への賛美をもって集まっている弟子たちを見て、敬意を表する程の関心を寄せてはいるが、「あえて」と、単なる好奇心・いい加減さをもってしては加わることは出来ないとする神への畏れである。
その反面、14節 「主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった」。それは、迫害を受けながらも何故、彼らは喜んでいるのか? 自らを差し出して助け合うのは? その前後に、現実的なわざがある。12節 「使徒たちの手により・・・」、15、16節 「・・・また、エルサレム付近の町々から大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を連れて集まって来た」と。
教会が罪と互いの肉を処理し続けるところに、聖霊の火は燃え、その時、正に、聖霊は魂を主に惹き付けるお方。
出エジプト3章1~6節で、神の山ホレブで「燃える炎」の中に居られる主に出会ったモーセの感動的出来事に顕著!!
「モーセは思った。『近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。』主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった」という光景!!
① 燃える教会の覚悟:
妬みを買い、留置され尋問を受ける(ヨハネ15章20節)。
17、18節 「そこで、大祭司とその仲間たち、すなわちサドカイ派の者たちはみな、ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちに手をかけて捕らえ、彼らを公の留置場に入れた」、27、28節 「彼らが使徒たちを連れて来て最高法院の中に立たせると、大祭司は使徒たちを尋問した。『あの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか。それなのに、何ということだ。おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった。そして、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしている。』」、33節 「これを聞いて、彼らは怒り狂い、使徒たちを殺そうと考えた」。
② 燃える教会への保証:
19、20節 「ところが、夜、主の使いが牢の戸を開け、彼らを連れ出し、『行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい』と言った」。
へブル1章14節 「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか」。御使いの派遣は、極めて現実的であり、今もその都度、必要に応えるべく配置されている。
又、33節で殺意を抱かれた時でさえ、34節 「ところが」と、ガマリエル【と言えば、パウロの師匠】の賢明な指導【35~39節、その計画や行動が人間から? 神から? の何れかの判断に誤りがあってはならないから、静観するように】が議員たちに受け入れられ、直ちに釈放されることに。
③ 燃える教会の取り続けるべき姿勢:
21節a 「彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた」、29~32節 「しかし、ペテロと使徒たちは答えた。『人に従うより、神に従うべきです・・・』」、41、42節 「使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った。そして毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめなかった」。教会は如何なる場合にも、従うべきお方は主であると明確にし、何をもって喜びとしているかを明確にしているが故に、人の反応を恐れずに即刻、躊躇せずに主に従わせられている。
※ 教会・主のみ体に一肢一肢であるお互いが、聖霊に満たされて《 モーセの見た燃える柴 》となっているならば、聖霊は全責任を持って、ご自身の働きを進められるとの期待を!!
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