使徒の働き4章23~31節
先週は、美しの門で足萎えを癒やしたことに始まった教会への初めての迫害の場面で《 苛立ちを露わにする指導者達/冷静に対応する弟子達との 》極めて対照的な光景に注目した。
迫害の直中で、二人をして毅然と対応させた鍵は、8節 「聖霊に満たされて・・・」にある。その実際的証しをどこに?
ⅰ 13節 「彼らは・・・大胆さを見、また・・・」と、ここに。
議員たちは、主のご在世当時、彼らが主と行動を共にしていたことが分かって来たとある。ヨハネ17章23節 詳訳 「・・・それは・・・世がはっきり認める」と、過去共におられたに留まらず、弟子たちに内住する主を人々は見るようになったのだ。
ⅱ 14節 「癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、返す【否認する、反論する】ことばもなかった」ことに。
10節、復活の力を目の当たりにされたことによる。
キャンベル・モルガン曰く、“ この物語は、教会の力の秘訣を示している。人々を癒やさない、霊的に造り替えていない教会は世に対して無力。聖霊に満たされて、死に勝たれた主の御名の力を知るのでなければ、真のキリスト教とは言えない ” と。「癒やし」とは、正に私たちの肉が清められて 住む聖霊によって造り変えられ、新しい人とされる変貌。
ⅲ 18節の脅迫に屈することなく、堂々と、19節 「神の御前に正しいかどうか、判断してください」と言わせ、20節に見る《 二人の内に燃えるものを与えておられる 》ことに。
※ 先ず、霊の働きにおいて最も重視すべきは《 人間的手腕に頼ることではなく、聖霊の満たしに与り続けることにある 》と、本気で思っているかの確認を実際生活で吟味をと!!
今朝は、23節 「さて、釈放された二人は仲間のところに行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した」時、教会はどのように応えたかに注目したい。
素晴らしいことには、24節を見ると「これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた」とあり、報告を受けるや否や、互いの間での会話ではなく、31節a 「彼らが祈り終えると」とあるように、神に口を開いたというのだ。
その祈りが悉く神の御心に叶ったという証が、31節a’ 「集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆【自由】に語り出した」という躍進に見る。
議会が、17節 「これ以上民の間に広まらないように、今後だれにもこの名によって語ってはならない、と彼らを脅しておこう」と協議して、18節 「そこで、彼らは二人を呼んで、イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じた」としても、この「大胆」さには、誰もこの世の権威をもって拘束できない自由が、ここに!!
黙示録3章7、8節 「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって【僅かな力しかないが】、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである」と、主の力による自由であり、人間的力においては無に等しい弟子たちではあるが、主を否まない信仰だけはあった。
彼らが神に向かって祈った祈りは何だったのか? 私たちが試みに直面した時、互いの会話に終始せず、直ちに「心を一つにして、神に向かって声をあげ」るお互いだろうかと自問自答しつつ、彼らの姿勢に学びたい。
① 24~28節、先ず「主」を創造主!! とお認めする信仰告白!!
現在直面している迫害をすら御手の中に掌握する絶対的主権者とする《 根拠あっての信仰 》即ち、詩篇2篇で既に語られている予告の成就に過ぎない との信仰告白の祈り。
ペテロは、27節 「事実」と、主を十字架刑に処したあの恐るべき反逆こそ、28節 「あなたの御手とご計画によって、起こるように前もって定められていたことすべてを行」ったに過ぎなかったのですからと、当然の結果としての今の迫害だと受け止めている ⇒ 第一ペテロ4章12節 「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思っては」ならないと言い、19節 「ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい」となる。
現在も迫害下にあるキリスト者たちは、使徒たち同様 この信仰で受け止めているからこそ、迫害が無くならない〈今の状況を変えて下さるように〉とは祈らないで欲しいと言うことが出来ている。
迫害下に置かれずに今をキリスト者として生活しているお互いに在っては、如何に考えるべき? 先ずの確認は、第一ペテロ2章18~25節 「・・・神の御前における良心・・・/善を行って・・・」いるとの内的確信の徹底さに生きること。
② 29、30節 「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください」と、教会が《 積極的に主の働きの推進 》をのみ求める祈り。
教会の「今、彼らの脅かしをご覧になって」とは、人間的勢い・熱心を悉く取り下げ、唯、現況を正しく把握しておられるお方のご意図に委ね《 自らを徹底して主のしもべとしての位置に身を置いて 》の祈りである点に留意したい。
その上に在ってのみ、今そうすることが御心ならば《 教会は受けている迫害を微塵も損失とは数えずに、むしろ大胆に語るならば当然受けるであろう仕打ちをものともせずに 》福音の為に出て行き、働き拡大をと求めての祈り。
私たちの祈りに、今直面している状況判断を主に信頼して導きを仰ぐこともせずに、唯 “ ・・・してください ” と一方的な熱心さだけで求めることはないだろうか? ローマ1章10節 「祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています」、15章32節 「また、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、あなたがたとともに、憩いを得ることができるように、祈ってください」の姿勢。
※ 教会は祈りの後、「一同は聖霊に満たされ」て初めて導きを確認して「・・・大胆に語り出した」。この姿勢をもって、私たちのではなく、主の主導によって働きに派遣されたい。
先週は、美しの門で足萎えを癒やしたことに始まった教会への初めての迫害の場面で《 苛立ちを露わにする指導者達/冷静に対応する弟子達との 》極めて対照的な光景に注目した。
迫害の直中で、二人をして毅然と対応させた鍵は、8節 「聖霊に満たされて・・・」にある。その実際的証しをどこに?
ⅰ 13節 「彼らは・・・大胆さを見、また・・・」と、ここに。
議員たちは、主のご在世当時、彼らが主と行動を共にしていたことが分かって来たとある。ヨハネ17章23節 詳訳 「・・・それは・・・世がはっきり認める」と、過去共におられたに留まらず、弟子たちに内住する主を人々は見るようになったのだ。
ⅱ 14節 「癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、返す【否認する、反論する】ことばもなかった」ことに。
10節、復活の力を目の当たりにされたことによる。
キャンベル・モルガン曰く、“ この物語は、教会の力の秘訣を示している。人々を癒やさない、霊的に造り替えていない教会は世に対して無力。聖霊に満たされて、死に勝たれた主の御名の力を知るのでなければ、真のキリスト教とは言えない ” と。「癒やし」とは、正に私たちの肉が清められて 住む聖霊によって造り変えられ、新しい人とされる変貌。
ⅲ 18節の脅迫に屈することなく、堂々と、19節 「神の御前に正しいかどうか、判断してください」と言わせ、20節に見る《 二人の内に燃えるものを与えておられる 》ことに。
※ 先ず、霊の働きにおいて最も重視すべきは《 人間的手腕に頼ることではなく、聖霊の満たしに与り続けることにある 》と、本気で思っているかの確認を実際生活で吟味をと!!
今朝は、23節 「さて、釈放された二人は仲間のところに行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した」時、教会はどのように応えたかに注目したい。
素晴らしいことには、24節を見ると「これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた」とあり、報告を受けるや否や、互いの間での会話ではなく、31節a 「彼らが祈り終えると」とあるように、神に口を開いたというのだ。
その祈りが悉く神の御心に叶ったという証が、31節a’ 「集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆【自由】に語り出した」という躍進に見る。
議会が、17節 「これ以上民の間に広まらないように、今後だれにもこの名によって語ってはならない、と彼らを脅しておこう」と協議して、18節 「そこで、彼らは二人を呼んで、イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じた」としても、この「大胆」さには、誰もこの世の権威をもって拘束できない自由が、ここに!!
黙示録3章7、8節 「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって【僅かな力しかないが】、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである」と、主の力による自由であり、人間的力においては無に等しい弟子たちではあるが、主を否まない信仰だけはあった。
彼らが神に向かって祈った祈りは何だったのか? 私たちが試みに直面した時、互いの会話に終始せず、直ちに「心を一つにして、神に向かって声をあげ」るお互いだろうかと自問自答しつつ、彼らの姿勢に学びたい。
① 24~28節、先ず「主」を創造主!! とお認めする信仰告白!!
現在直面している迫害をすら御手の中に掌握する絶対的主権者とする《 根拠あっての信仰 》即ち、詩篇2篇で既に語られている予告の成就に過ぎない との信仰告白の祈り。
ペテロは、27節 「事実」と、主を十字架刑に処したあの恐るべき反逆こそ、28節 「あなたの御手とご計画によって、起こるように前もって定められていたことすべてを行」ったに過ぎなかったのですからと、当然の結果としての今の迫害だと受け止めている ⇒ 第一ペテロ4章12節 「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思っては」ならないと言い、19節 「ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい」となる。
現在も迫害下にあるキリスト者たちは、使徒たち同様 この信仰で受け止めているからこそ、迫害が無くならない〈今の状況を変えて下さるように〉とは祈らないで欲しいと言うことが出来ている。
迫害下に置かれずに今をキリスト者として生活しているお互いに在っては、如何に考えるべき? 先ずの確認は、第一ペテロ2章18~25節 「・・・神の御前における良心・・・/善を行って・・・」いるとの内的確信の徹底さに生きること。
② 29、30節 「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください」と、教会が《 積極的に主の働きの推進 》をのみ求める祈り。
教会の「今、彼らの脅かしをご覧になって」とは、人間的勢い・熱心を悉く取り下げ、唯、現況を正しく把握しておられるお方のご意図に委ね《 自らを徹底して主のしもべとしての位置に身を置いて 》の祈りである点に留意したい。
その上に在ってのみ、今そうすることが御心ならば《 教会は受けている迫害を微塵も損失とは数えずに、むしろ大胆に語るならば当然受けるであろう仕打ちをものともせずに 》福音の為に出て行き、働き拡大をと求めての祈り。
私たちの祈りに、今直面している状況判断を主に信頼して導きを仰ぐこともせずに、唯 “ ・・・してください ” と一方的な熱心さだけで求めることはないだろうか? ローマ1章10節 「祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています」、15章32節 「また、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、あなたがたとともに、憩いを得ることができるように、祈ってください」の姿勢。
※ 教会は祈りの後、「一同は聖霊に満たされ」て初めて導きを確認して「・・・大胆に語り出した」。この姿勢をもって、私たちのではなく、主の主導によって働きに派遣されたい。
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