聖日礼拝『使徒の働き』より 13


使徒の働き4章1~22節

 先週は、ペンテコステ同様、ここ「ソロモンの回廊」で為された説教は、ペテロが自ら集めて迎えた会衆にではなく《 使徒たちを通しての聖霊の働きに驚嘆して、駆け寄って来た人々を相手にして為された 》ものだったことに注目した。
 12節 「どうして・・・」と始まった説教で、何を伝えたのか?

ⅰ この癒やしの奇跡は、驚くに値しないことだと。
 ペテロは、12節 「私たちが・・・歩かせたかのように・・・」見た彼らの誤りを正すべく、13節で、旧約時代からの約束に思いを馳せさせ、「しもべイエスに栄光をお与えになりました」と、700年前の預言に言及し、人の手によるわざではなく、神のご計画の実現に他ならないと、断固として明言。

ⅱ それ故、19節a 「・・・悔い改めて神に立ち返」り、神の預言の成就としての神のわざと認めて神に立ち返るべきだと。
a. 13c~15a節 「あなたがたは・・・この方を拒みました」と、彼らの恐るべき罪悪を明確にし、彼らを罪の自覚に導いた。
b. 自覚を促した動機は、17節に見る主の十字架上の執り成しの心と理解とで、彼らが自覚した罪からの救いを求めて。
c. その罪の悔い改めに伴う祝福に招いた。
 19a’~20節 「そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られ」、「そうして、主の御前から回復の時が来て・・・」と主の再臨の望みを伝え、25節《 地の全ての民族の祝福の基となる 》アブラハムとの契約に与るために、26節 「神はまず・・・」との神の遠大な永遠的祝福に与るよう招いた。

※ 私たちは、教会が聖霊の圧倒的働きによって宣教のうねりを見ていくことになる点に注視し、今ここにとの祈りをと!!


 今朝は、1節 「ペテロとヨハネが民【美しの門で癒された人の出来ことに驚嘆して一斉に駆け寄って来た人々】に話していると、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちが二人のところにやって来た」ことに始まった《 教会にとって初めての経験となる迫害の場面 》に注目する。
 ここに、極めて対照的な光景を目にする。
 一方は、指導者たち:【2節 「苛立ち」、3節 「二人に手をかけて捕らえ・・・翌日まで留置」し、7節 「彼らは二人を真ん中に立たせて・・・尋問し」つつも、13節 「ペテロとヨハネの大胆さを見・・・驚」き、14節 「返すことばもな」く困惑し、唯、最終手段として、17節 「脅しておこう」と協議し、21節 「二人をさらに脅したうえで釈放し・・・人々の手前、二人を罰する術がなかった」】と、惨めな騒々しさ。
 メンバーの内訳は、5節のエルサレムの最高法院議員が総動員、6節 「大祭司アンナス【カヤパの舅でその役職に居座って実権を握る権力者】、カヤパ【名目上の大祭司で、主を断罪し処刑した人物】、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した」と、厳重体制が敷かれてのこと。
 その会議に集まった人々の数は、最高法院70人と二人の大祭司に加えられた人数を数えるならば、相当数に及ぶ。
 もう一方はたった二人のペテロとヨハネ:【8~12節の答弁に※13節 「彼らは・・・大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚」き、19節 「・・・正しいかどうか判断してください。・・・話さない訳にはいきません。」】と留置されようが、尋問されようが微動だにしない冷静さ。
 迫害の中で、毅然とした態度で対応出来たその鍵は、何と言っても、8節 「そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った」にあると学んで、自らを吟味したい。聖霊に満たされているその証を・・・

① 13節 「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた」ことに。

 議員たちは、主のご在世当時、彼らが主と行動を共にしていたことが分かって来たとあるが、詳訳聖書 ヨハネ17章23節 「・・・それは・・・世がはっきり認める為です」には、弟子たちに内住する主を人々は見るようになると、言っておられた。
 従って彼らの語る※10節 「この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです」と、彼らが犯した罪の事実を伝える姿勢に大胆さを見ても不思議ではなく、彼らが無学な普通の人であることも不思議ではない ⇒ ガラテヤ2章20節。

② 14節 「そして、癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、返す【事実を否認する、反論する】ことばもなかった」ことに。

 この「癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては」とは、10節 「神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名」による《 復活の力を目の当たりにされること 》である。
 キャンベル・モルガン曰く “ この物語は、教会の力の秘訣を示している。霊的事柄は、感覚的世界にもたらされた結果によって示されます。教会は、癒やされた人がいないなら、ペテロの様にキリストの復活を論証出来ません。人々を癒やしていない、霊的に造り替えていない教会は世に対して無力。ですから聖霊に満たされて、死に勝たれたイエス・キリストの御名の力を知るのでなければ、真のキリスト教とは言えない ” と。ここに見た「癒やし」とは、私たちが、肉が悉く処理されることによって造り変えられ、新しく変貌させられることに他ならない。

③ 議会からの、18節 「語ることも教えることも・・・してはならない」との脅迫にもめげず、堂々と、20節 「自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません」と《 二人の内に燃えるものを与えておられる 》ことに。

 19節 「神の御前に正しいかどうか、判断」をと、二人から迫られた議会は、21節 「そこで彼らは、二人をさらに脅したうえで釈放した・・・」と、何ら対抗出来ずに身を引くのみ。

※ もっと大胆にならなければ? 自分には学識がもっとなければ? もっと自分には・・・が足りないから、何らかの実力を補うべき? という方向にのみ走ることは誤り。先ず、内住のお方の発動に期待し、霊の働きにおいて最も重視すべきは《 聖霊の満たしに与り続けることにある 》と、本気で思っているのかの確認を実際生活で吟味を!!

この記事へのコメント