使徒の働き3章11~26節
先週は、教会が初めて直面する迫害の切っ掛けとなった足の萎えた人の癒やしに携わったペテロとヨハネに、3章1節 「午後三時の祈りの時間に宮に上っ」たという《 神との交わりの中に今を生きる礼拝者としての信仰 》を学んだ。
ⅰ 3、4節 「彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、・・・その人を見つめて、『私たちを見なさい』と言」えた信仰。
彼が、宮の門に置いてもらっていたのは、礼拝者なら自分を見過さないだろうとの期待があったからでは? その人が霊的な求道者とはとても言い難い動機でしかなかったが、二人の彼への言葉掛けは、8~10節 「神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。人々は・・・驚いた」との結実を見た。
ⅱ 5、6節 「金銀は私にはない。・・・ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言えた信仰。
この「金銀」とは、「美しいコリント風の真鍮で出来ているニカノルの門」で、高さが25m、扉は20m、銀や金の分厚い板が張られ、他のどの門よりも美しさが卓越していた。
彼らの「・・・私にはない」と言ったのは、「ナザレのイエス・キリストの名」こそ、貴方が最も必要としているものだとの洞察で、権威をもって迫ることが出来た。
ⅲ 7節a 「彼の右手を取って立たせ ⇒ 8~10節」た信仰。
彼の癒やしは、ペテロが《 その人の為に主を期待し、信じる信仰 》を持って臨んだ愛が用いられた。
※ 宮の門にいた人は、今も教会・私たちの身近に、救いを必要とする隣人!! と覚える真の礼拝者でありたいと。
今朝は、11節 「この人【美しの門の前で癒された足の不自由な人】がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、『ソロモンの回廊』と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た」ことから、その彼らにペテロがすることになった説教に注目したい。
ここでの説教は、ペンテコステ当日に次ぐ二回目のもので、ペテロが聴衆を集めて取り次いだものではなく《 人々が、使徒たちを通して為される聖霊の働きに驚嘆して集まって来たことに端を発している 》ことに注視したい。
前回は、2章12、13節 「人々はみな驚き当惑して、『いったい、これはどうしたことか』と言い合った。だが、『彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、嘲る者たちもいた」その時。ここでは、3章10、11節 「・・・だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。・・・非常に驚いた人々がみな、・・・彼らのところに、一斉に駆け寄って来た」時にである。
何れも聖霊の働きに結果していることに、“ 一体何が起こったのか? そこに何があるのか? ” 知りたいものだとの関心と問題意識が生まれているところでの説教。即ち彼らは驚嘆し、感動し、理解を超えた出来事に恐れを抱きつつ、究明したい知りたいと願って、使徒たちを囲んだのだ。
従って、その説教によって救われる人々が起こされるのも頷けるのでは!! ゼカリヤ8章14~23節 「 ・・・『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたから。』」と《 神の臨在の証に 》惹き付けられた。
さてペテロが、12節 「イスラエルの皆さん」と口を開き、「どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」に始まった説教で伝えたのは何?
① 「どうして、どうして・・・」と、この癒やしの奇跡は、驚くに値しないことだと。
使徒たちは洞察した。それは、彼らの驚き様が、“ 使徒たちの手柄によるとは考え難いが、目の当たりにしたこの事実を見る限り、紛れもなく直接関わったペテロとヨハネによると認めざるを得なくされ、もしや恐れるべき人たちなのかも知れないと思ったことにある” と見て取ったことを。
聖霊に満たされた使徒たちは即刻、その誤りを正すべく【かつて、互いの優劣を競い合うことに熱を入れていたペテロにはあり得なかった姿勢であり、自らに栄光を帰す恐れのあるものから直ちに身を退けさせる主への明け渡しの信仰がここに見られることは幸い】、手掛けたことは、彼らに、13節 「アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました」と、旧約時代からの約束に思いを馳せさせ、特にユダヤ人には親しまれている「しもべイエスに栄光をお与えになりました」と、イザヤ52章13節と、700年も前から預言されて来たことに言及し、明らかに、人の手によるわざではなく、神ご自身によるご計画の実現に他ならないと、断固として明言した。
② それ故、驚くべきではなく、19節a 「悔い改めて神に立ち返」ることをもって、神のこの預言の成就による神のわざと認める生涯に立ち返るべきだと。
その為に・・・
a. 彼らがした恐るべき罪悪を明確にし、罪の自覚に導いた。
13c~15a節 「あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺したのです」。
b. しかし罪の事実を明らかにするその動機は、17節 「さて兄弟たち。あなたがたが、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたことを、私は知っています」と、彼らの罪の自覚から救われることを求めた。
主が十字架上で先ず、処刑に関わる人々の為に、ルカ23章34節 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られた祈りに同様、魂への救いを願う祈りなのだ。
c. その罪の悔い改めに伴う祝福に招いた。
19a'~20節 「そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られ」、「そうして、主の御前から回復の時が来て・・・」と主の再臨の望みを伝え、25節《 地の全ての民族の祝福の基となる 》アブラハムとの契約を成就すべく、26節 「神はまず・・・」との神の遠大な永遠的祝福に与るよう招いた。
※ 私たちは、教会が聖霊の圧倒的な働きによって宣教のうねりを見ていくことになる点に注視し、今ここにとの祈りを!!
先週は、教会が初めて直面する迫害の切っ掛けとなった足の萎えた人の癒やしに携わったペテロとヨハネに、3章1節 「午後三時の祈りの時間に宮に上っ」たという《 神との交わりの中に今を生きる礼拝者としての信仰 》を学んだ。
ⅰ 3、4節 「彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、・・・その人を見つめて、『私たちを見なさい』と言」えた信仰。
彼が、宮の門に置いてもらっていたのは、礼拝者なら自分を見過さないだろうとの期待があったからでは? その人が霊的な求道者とはとても言い難い動機でしかなかったが、二人の彼への言葉掛けは、8~10節 「神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。人々は・・・驚いた」との結実を見た。
ⅱ 5、6節 「金銀は私にはない。・・・ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言えた信仰。
この「金銀」とは、「美しいコリント風の真鍮で出来ているニカノルの門」で、高さが25m、扉は20m、銀や金の分厚い板が張られ、他のどの門よりも美しさが卓越していた。
彼らの「・・・私にはない」と言ったのは、「ナザレのイエス・キリストの名」こそ、貴方が最も必要としているものだとの洞察で、権威をもって迫ることが出来た。
ⅲ 7節a 「彼の右手を取って立たせ ⇒ 8~10節」た信仰。
彼の癒やしは、ペテロが《 その人の為に主を期待し、信じる信仰 》を持って臨んだ愛が用いられた。
※ 宮の門にいた人は、今も教会・私たちの身近に、救いを必要とする隣人!! と覚える真の礼拝者でありたいと。
今朝は、11節 「この人【美しの門の前で癒された足の不自由な人】がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、『ソロモンの回廊』と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た」ことから、その彼らにペテロがすることになった説教に注目したい。
ここでの説教は、ペンテコステ当日に次ぐ二回目のもので、ペテロが聴衆を集めて取り次いだものではなく《 人々が、使徒たちを通して為される聖霊の働きに驚嘆して集まって来たことに端を発している 》ことに注視したい。
前回は、2章12、13節 「人々はみな驚き当惑して、『いったい、これはどうしたことか』と言い合った。だが、『彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、嘲る者たちもいた」その時。ここでは、3章10、11節 「・・・だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。・・・非常に驚いた人々がみな、・・・彼らのところに、一斉に駆け寄って来た」時にである。
何れも聖霊の働きに結果していることに、“ 一体何が起こったのか? そこに何があるのか? ” 知りたいものだとの関心と問題意識が生まれているところでの説教。即ち彼らは驚嘆し、感動し、理解を超えた出来事に恐れを抱きつつ、究明したい知りたいと願って、使徒たちを囲んだのだ。
従って、その説教によって救われる人々が起こされるのも頷けるのでは!! ゼカリヤ8章14~23節 「 ・・・『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたから。』」と《 神の臨在の証に 》惹き付けられた。
さてペテロが、12節 「イスラエルの皆さん」と口を開き、「どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」に始まった説教で伝えたのは何?
① 「どうして、どうして・・・」と、この癒やしの奇跡は、驚くに値しないことだと。
使徒たちは洞察した。それは、彼らの驚き様が、“ 使徒たちの手柄によるとは考え難いが、目の当たりにしたこの事実を見る限り、紛れもなく直接関わったペテロとヨハネによると認めざるを得なくされ、もしや恐れるべき人たちなのかも知れないと思ったことにある” と見て取ったことを。
聖霊に満たされた使徒たちは即刻、その誤りを正すべく【かつて、互いの優劣を競い合うことに熱を入れていたペテロにはあり得なかった姿勢であり、自らに栄光を帰す恐れのあるものから直ちに身を退けさせる主への明け渡しの信仰がここに見られることは幸い】、手掛けたことは、彼らに、13節 「アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました」と、旧約時代からの約束に思いを馳せさせ、特にユダヤ人には親しまれている「しもべイエスに栄光をお与えになりました」と、イザヤ52章13節と、700年も前から預言されて来たことに言及し、明らかに、人の手によるわざではなく、神ご自身によるご計画の実現に他ならないと、断固として明言した。
② それ故、驚くべきではなく、19節a 「悔い改めて神に立ち返」ることをもって、神のこの預言の成就による神のわざと認める生涯に立ち返るべきだと。
その為に・・・
a. 彼らがした恐るべき罪悪を明確にし、罪の自覚に導いた。
13c~15a節 「あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺したのです」。
b. しかし罪の事実を明らかにするその動機は、17節 「さて兄弟たち。あなたがたが、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたことを、私は知っています」と、彼らの罪の自覚から救われることを求めた。
主が十字架上で先ず、処刑に関わる人々の為に、ルカ23章34節 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られた祈りに同様、魂への救いを願う祈りなのだ。
c. その罪の悔い改めに伴う祝福に招いた。
19a'~20節 「そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られ」、「そうして、主の御前から回復の時が来て・・・」と主の再臨の望みを伝え、25節《 地の全ての民族の祝福の基となる 》アブラハムとの契約を成就すべく、26節 「神はまず・・・」との神の遠大な永遠的祝福に与るよう招いた。
※ 私たちは、教会が聖霊の圧倒的な働きによって宣教のうねりを見ていくことになる点に注視し、今ここにとの祈りを!!
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