聖日礼拝『使徒の働き』より 9


使徒の働き2章22~36節

 先週は、ペンテコステのほんの数十日前のこと、自らの身を護る為に主の弟子であることを真っ向から否定してしまったペテロが聖霊に満たされた時、何と!! 14節で立ち上がって人々に呼び掛け、36節 「・・・イエスを、あなたがたは十字架につけた」と、大胆に彼らを糾弾した場面に注目した。
 人間的にはあの彼が言えた柄なのか? と詰問されて当然の者。しかしその彼も、主を裏切った瞬間、彼を期待する主の愛の視線によって激しい痛恨の極みで打ちのめされ、更にはその後、何と!! 復活された主から、ヨハネ21章15~17節 「あなたはわたしを愛していますか」とまで問われる主の愛に圧倒され砕かれてからというもの、その彼を聖霊が内に埋没させ、空しくなった彼を立ち上がらせて語らせた。ペテロは、ペンテコステの日を明確に預言しているヨエル書を引用し、20、21節 「・・・主の御名を呼び求める者はみな救われる」ことになったと宣言した。
 それは、17節 「すべての人にわたしの霊を注ぐ」と、聖霊が注がれて初めて、十字架の死によっての贖あがないが完成(ガラテヤ3章13、14節)を見ることになったからである。
 この「救われる」とは、十字架の血による罪の赦しのみならず、罪性の清めに与る都度の聖霊の注ぎをもっての救い!!
 そこには分け隔てなく、「すべての人」への招きが成就したとあるが、「主の御名を呼び求める者はみな」であると。

※ 実に聖霊降臨によって贖いが完成し、いよいよ神の人類への最終段階に入っての今こそ《 終末の終末との意識をもって 》しっかり聖霊に満たされてペテロの如く声を上げたいと。


 今朝は、ペテロがペンテコステの説教を始めるに当たってヨエル書の成就によるものと切り出して後《 この預言を成就された神の権威を 》33節 「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです」と、力強く解き明かしているところに注目したい。
 神の権威をとの証しは、この説教を聞いた者たちに、37節 「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言」わせたことに明確。即ち、彼らに自らの罪を認めさせ、その罪には弁解の余地などないとの自覚に導き、罪の大きさに恐れを生じさせ、この罪からの救いを求めさせたからだ。
 ヨハネ16章8節 「その方が来ると、罪について、義【神との正しい関係】について、さばきについて」、世が悟るようにされると主が言われたようにである。この日、41節 「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた」とある。
 ペテロが、22節a 「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください」と、明らかにされた神の権威とは?

① 24節 「しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って・・・」、32節 「このイエスを、神はよみがえらせました」に。

 仮に人間的権威をもって、23節 「神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、・・・人々の手によって十字架につけて殺した」としても、「しかし神は」なのだと。
 主が贖いを成し遂げることについては、「神の定めた計画と神の予知によって」とあり、創世記3章15節 「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫【人の子として生を受けられる主】の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」にその起源を持つ。
 この「おまえの子孫」とは、主を「十字架につけた」首謀者・最高法院議員たちと彼らに従ったユダヤ人で、ヨハネ8章37~47節 「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。・・・ ・・・ あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。・・・」と言われている人々である。
 彼らをして主を殺させたのは、主を妬む肉の性質であり、あくまでも彼らの自由意志をもっての行動だった。この事実を考える時、何という《 人知を超えた神秘的なこと 》か。
 「神が定めた計画と神の予知」とは、人の自由意志をコントロールしておられることを意味してはいない。あくまでも人は悪を謀ったとしても、究極的には神の予知された範囲でのこと、人間的権威、権力が神に敵対したとしても、彼らには勝ち目はないとの宣言【詩篇2篇】。
 サタンは主を十字架に付けたことをもって勝どきを上げた。「しかし神は」と、詩篇16篇を裏付けに、24節b 「この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです」、31節 「それで、後のことを予見し、キリストの復活について・・・語ったのです」とは、何という権威。

② 33節 「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです」。

 ペテロはここで、22節 「神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです」と言われたイエスとは、「神の右に上げられた」お方なのだと彼らに突き付けた。即ち、ユダヤ人は、自ら主に向かって取ったあらゆる《 蔑み、辱め、嘲笑、暴言を吐いては呪ったという 》暴言の罪は一体どなたに向けてしまってのものだったのかを、明らかに突き付けられることになった。
 あなたがたが十字架刑に処したイエスとは、実は、この権威あるお方によって遣わされた方であり、今や「神の右に上げられたイエス」神ご自身であられ、そのお方が何と!!
 「約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いで下さった」だったとは!!
 更にペテロは、詩篇110篇1節のダビデによる証言は、実に、「主は、私の主に言われた」と言い、36節 「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と念を押した。最早、自らが犯した罪への弁解の余地など持ち合わせない状況に導いた。

※ お互いも果たして、神の絶対的権威をどこまでお認めしての今か? を真剣に自問自答しつつ、真の礼拝者でありたい。

この記事へのコメント