聖日礼拝『使徒の働き』より 8


使徒の働き2章14~21節

 先週は、主が1章4、5節で「待ちなさい」と命じておられた《 聖霊降臨を見た歴史上画期的出来事 》に注目した。

ⅰ いつ? 1節a 「五旬節の日になって」。
 興味深いことには、主の復活後50日目の「七週の祭り」であると共に、モーセのシナイ山での律法授与を祝う祭りでもあり、エレミヤ31章31~34節 「わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す」預言成就の日。
 聖霊のバプテスマによって最早「石の板」にではなく、「心の板」に書き記されること【第二コリント3章3節】にと。

ⅱ どこに? 1節a’ 「皆が同じ場所に集まっていた」家に。
 集まっている彼らの内的実情は、言うまでもなく肉のままでしかないとは言え、彼らには主の約束に対する期待感と霊的渇きの一致があった、そこに目で見える形「激しい風が吹いて来たような響き(聖霊の戴冠式)」と「炎のような舌が分かれて(聖霊の働きを物理的な火の持つ作用によって)」という象徴的現象でその証を顕著にされた。

ⅲ 聖霊が弟子たちに臨まれた決定的な証は? 4節 「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」にである。
 それは5、9~11節に見る、広範に及ぶ人々が集まって来ている時の最大の必要が、福音を全世界に向けて発信する為の《 他国の言葉を話す力 》だったからだ!!
 人々の反応が、6、7a、 12、13節は当然!!

※ 聖霊降臨に主の贖あがないの完成を見、神の国を迎える最終段階に入った画期的出来事だったと覚え襟を正し邁進したいと。


 今朝は、聖霊に満たされたペテロが弟子たちと共に、14節 「立って、声を張り上げ、人々に語りかけた」場面、説教の為に立ち上がった場面に注目したい。
 実際、ほんの数十日前のこと、自らの身を護る為に主の弟子であることを真っ向から否定してしまったペテロ!! ゲツセマネで捕縛され、裁判の為に連行される主を横目に、自らの失態を激しく悔い、絶望的に泣いたペテロが!!
 何と!! そのペテロが「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん・・・私のことばに耳を傾けていただきたい」と立ち上がったのだから。
 それは聖霊がペテロをして立ち上がらせたことによる。
 この説教の締め括りでは彼が、36節 詳訳 「それ故、イスラエルの全家は、神があなたがたが十字架につけたこのイエスを、主またキリストとされたことを、一点の疑い無しに認め【確かに承認】しなければなりません」と上からの権威を持って人々に悔い改めを迫っていることに見る力の故に。
 人間的に見るならば、ペテロはユダヤ人に「あなたがたが十字架につけた」と彼らの反逆振りを糾弾する立場にはないではないか? と詰問されて当然の者。彼自身、主の弟子でありながら、主が捕縛された時には主を見捨て、主の十字架刑に加担したも同然だからだ。しかしその彼がこの恐るべき現実から立ち上がらせられたのだ。主を拒絶した丁度その時、ルカ22章61節 「振り向いてペテロを見つめられた」主の目が促した彼を期待する愛によって、彼自ら激しい痛恨の極みによって打ちのめされることになったからだ。

 その悔恨の確かさが、復活の主のティベリア湖畔での新たな顕現でのことである。「主だ」と聞いてまっしぐらに、海に飛び込んで岸辺の主に向かって行ったことに見た。
 そしてその極め付きが、ヨハネ21章15~17節 「あなたはわたしを愛していますか」との砕かれたペテロへの赦しに満ちた愛の確認と Second Chance を与えた主の愛、更に遂に、明け渡されたその魂に注がれたのが聖霊だったからだ。
 この聖霊が彼をご自身の内に埋没させ、空しくなった彼を立ち上がらせて語らせた。ペテロも又、最早過去を完全に葬られた者として無心に語らせられたのがこの説教。いつまでも、同じ罪人だから何も言えないとは言わずに、赦された者との自覚にある者からの聖霊の説教!!
 ペテロが、14節で、集まっている人々への呼び掛けとして、「ユダヤの皆さん」と言っているのは、聖霊の著しい働きに驚嘆する巡礼者たちと意識してのこと。
 又一方「エルサレムに住むすべての皆さん」とは、恐らく、主を十字架に付けたエルサレム最高院の人たちと、その彼らに加担した住民たちからの嫌がらせであろう※13節 「『・・・新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、嘲る者たち」を意識して、15節 「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません」と、先ず誤解を解いた。その上で、16節 「これは、預言者ヨエルによって語られたことです」と、的確にペンテコステを預言していた聖句、主から聞いて学んでいたであろう聖句を思い出させられ、うがって引用している。

 実にヨエル書は、紀元前九、八世紀頃のものとされ、このペンテコステの現象を極めて明確に預言しているからだ。
 17~21節 「終わりの日」とは、へブル1章2節 「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました」とあるが、ある聖徒が、“ 旧約時代は新約聖書のつぼみであり、新約聖書は旧約聖書が満開となったもの ” と言っているが、旧約で御子の福音を準備的に伝えられて来たが、遂にここに完全な形で成就し、神のご計画の完成を見る時代に突入したの意。
 このペンテコステの意義は、20、21節 「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる」ことになったとの宣言にある。ここには、全人類を襲う終末の恐るべき天変地異の預言が伝えられており、近年その兆候を顕著に見始めているお互いであることに緊張感を覚えているのでは。
 その為に、17節 「すべての人にわたしの霊を注ぐ」とあり、聖霊が注がれて初めて救いの完成となる ⇒ ガラテヤ3章13、14節の《 主の贖いの完成 》である。
 この「救われる」とは、十字架の血による罪の赦しのみならず、罪性の清めに与る都度の聖霊の注ぎをもっての救い!!
 そこには分け隔てなく、「すべての人」への招きではあるが、「主の御名を呼び求める者はみな」である。

※ 実にこの聖霊降臨によって贖いが完成し、いよいよ神の人類への最終段階に入っての今は《 終末の終末との意識をもって 》しっかり聖霊に満たされてペテロの如く声を上げたい。

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