使徒の働き2章1~13節
先週は、祈りの場から立ち上がったペテロが行った《 十二使徒の補充 》は、主の御心に叶ったものだったのかを考えた。
16~20節の詩篇の聖句を受けて、21、22節 「ですから」と言われれば皆は納得したのだろう。しかし主のご指示は、あくまでも、4節 「・・・待ちなさい」にあったとすれば?
その方法も、二人を既に立てた後に祈り、くじ引きでマッティアを選出。主による十二使徒選出は、追従する弟子たちが増えつつある中、ご奉仕に入って一年余り後のこと、しかも夜通しの祈りによって。しかし主は、彼らの不適切な出方に沈黙のままの7、8年後、権威をもって、9章で《 使徒パウロを選出 》された。この事実によって、ペテロの行為が如何に人間的で、逸る心、彼の持ち前の先走る性質によるものでしかなく、越権行為だったことが明確では?
パウロが、ガラテヤ1章1節 「人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロ」と告白している通り。主ご自身から、使徒9章15節 「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です」と補充されたのだ。
※ 自戒した!! 何と、肉は聖霊に先走って何事かをしようとするものだと。ペテロは主導権を持つ必要はなかった。持ち前の先走った性格がここに出て来た。彼には気負いがある。使徒パウロに優る器はいない。新約聖書のほぼ半分がパウロを通して聖霊の導きによって記されている。悉く主が準備しておられると信じて、今を生きる者でありたいと。
今朝は2章で、主が1章4、5節 「待ちなさい」と命じておられた《 聖霊降臨 》を、2節 「すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った」と見た《 歴史上画期的出来事 》に注目を。
ここに、いつ? どこに? 聖霊が臨み、その事実を裏付ける決定的なしるしについて記録されている。
① 1節a 「五旬節の日になって」。
cf. プリント【福音が広がる】 非常に興味深いことに、この日が過越すぎこしの祭り(出エジプトを記念して制定された、年初めの種なしの祭り)即ち主の贖あがないが成し遂げられた主の復活から 50日目に記念された七週の祭り(勤労の初穂を献げる刈り入れの祭り)で、モーセがシナイ山で律法を授けられたことを祝う祭りでもあるということ。
ここに秘められた恵みを把握しておきたい。
画期的な変化をもたらしたこの記念すべき日は、予かねてから《 やがて人々が経験する霊的経験の実現を見ると言われていた日 》であると ⇒ エレミヤ31章31~34節 「・・・ ・・・わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らは・・・」と!!
モーセが授与された律法は石の板だった。民たちは従うと誓ったものの、直ちに金の子牛を作って与えられた律法を破り、主に従えなかった。しかし、この聖霊降臨の日は実に、聖霊のバプテスマによって最早「石の板」にではなく、「心の板」に書き記される【第二コリント3章3節】こととなった。
②1節a’ 「皆が同じ場所に集まっていた」家に。
同じ場所に集まっていた人々とは、1章14節 詳訳 「待機しながら全く心を一つにして、ひたすら祈りに励んでいた」、15節 「百二十人ほどの人々が一つになって集まっていた」と、聖霊が注がれる条件が整っていた所に注がれた。
そこにあったものとは?
集まっている彼らの内的実情は、言うまでもなく肉のままでしかないとは言え、彼らには主の約束に対する期待感と、6節《 イスラエルの再興は? 》とお尋ねしたことへの、7節 「・・・あなたがたの知るところではありません」との叱責を受け、遅ればせながら主の言われる「聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受けます」に与りたいとする霊的一致があった。この日を迎えるまでの10日間には、15節以下の《 使徒職の欠員を埋める作業に立ち入ってしまったものの 》その心には分散がなかったことを意味する。
実に、2節 「すると天から突然」とは紛れもなく、マタイ18章19節 「地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます」の手応えを目で見える形、象徴的現象でその証を顕著にされた。
「激しい風が吹いて来たような」とは、聖霊が地上に降られた証しの為地響きを伴わせ、大々的・象徴的に知らせる聖霊の戴冠式なのだ。又、「炎のような舌が分かれて」においては、「聖霊と火とのバプテスマ」と言っておられたように、聖霊が物理的に火の持つ作用【汚れを焼き尽くす】をもって、一人一人に臨まれたと。
③ 聖霊が弟子たちに臨まれた決定的な証は、4節 「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」である。
弟子たちは、主の言われたように聖霊を受けるや否や、「御霊が語らせるままに」、他国の言葉で話し始めたのだ。何故なら、5節 「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいた(永住していたというより、離散者が帰還していたの意)」とあり、と共に、10、11節を見ると「・・・に住む者、また滞在中のローマ人で、ユダヤ人もいれば(ユダヤ教への)改宗者もいる・・・」と巡礼者への言及が。cf.【ペンテコステの巡礼者たち ─ 出身国】の地図を見ると、何と広範に及んでいるかが一目瞭然。この日を機に福音を全世界に向けて発信することが神の御心だったからであり、その必要の為、聖霊によって《 弟子たちに他国の言葉を話す力 》を与えられたのだ。
そこに居合わせた人々が、6、7節 「・・・呆気にとられてしまった。彼らは驚き、不思議に思って言った」、12、13節 「人々はみな驚き当惑して・・・嘲あざける者たちもいた」のも当然!!
聖霊に満たされた弟子たちの変貌ぶりが、如何に脅威的だったかが明らかに。
※ 聖霊降臨によって弟子たちが聖霊の満たしに与ること、この成就こそが主の贖いの完成【ガラテヤ3章13、14節】と同時に、神の国を迎える最終段階に入った画期的出来事だったと覚えて、襟を正し、教会の使命に邁進したい。
先週は、祈りの場から立ち上がったペテロが行った《 十二使徒の補充 》は、主の御心に叶ったものだったのかを考えた。
16~20節の詩篇の聖句を受けて、21、22節 「ですから」と言われれば皆は納得したのだろう。しかし主のご指示は、あくまでも、4節 「・・・待ちなさい」にあったとすれば?
その方法も、二人を既に立てた後に祈り、くじ引きでマッティアを選出。主による十二使徒選出は、追従する弟子たちが増えつつある中、ご奉仕に入って一年余り後のこと、しかも夜通しの祈りによって。しかし主は、彼らの不適切な出方に沈黙のままの7、8年後、権威をもって、9章で《 使徒パウロを選出 》された。この事実によって、ペテロの行為が如何に人間的で、逸る心、彼の持ち前の先走る性質によるものでしかなく、越権行為だったことが明確では?
パウロが、ガラテヤ1章1節 「人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロ」と告白している通り。主ご自身から、使徒9章15節 「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です」と補充されたのだ。
※ 自戒した!! 何と、肉は聖霊に先走って何事かをしようとするものだと。ペテロは主導権を持つ必要はなかった。持ち前の先走った性格がここに出て来た。彼には気負いがある。使徒パウロに優る器はいない。新約聖書のほぼ半分がパウロを通して聖霊の導きによって記されている。悉く主が準備しておられると信じて、今を生きる者でありたいと。
今朝は2章で、主が1章4、5節 「待ちなさい」と命じておられた《 聖霊降臨 》を、2節 「すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った」と見た《 歴史上画期的出来事 》に注目を。
ここに、いつ? どこに? 聖霊が臨み、その事実を裏付ける決定的なしるしについて記録されている。
① 1節a 「五旬節の日になって」。
cf. プリント【福音が広がる】 非常に興味深いことに、この日が過越すぎこしの祭り(出エジプトを記念して制定された、年初めの種なしの祭り)即ち主の贖あがないが成し遂げられた主の復活から 50日目に記念された七週の祭り(勤労の初穂を献げる刈り入れの祭り)で、モーセがシナイ山で律法を授けられたことを祝う祭りでもあるということ。
ここに秘められた恵みを把握しておきたい。
画期的な変化をもたらしたこの記念すべき日は、予かねてから《 やがて人々が経験する霊的経験の実現を見ると言われていた日 》であると ⇒ エレミヤ31章31~34節 「・・・ ・・・わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らは・・・」と!!
モーセが授与された律法は石の板だった。民たちは従うと誓ったものの、直ちに金の子牛を作って与えられた律法を破り、主に従えなかった。しかし、この聖霊降臨の日は実に、聖霊のバプテスマによって最早「石の板」にではなく、「心の板」に書き記される【第二コリント3章3節】こととなった。
②1節a’ 「皆が同じ場所に集まっていた」家に。
同じ場所に集まっていた人々とは、1章14節 詳訳 「待機しながら全く心を一つにして、ひたすら祈りに励んでいた」、15節 「百二十人ほどの人々が一つになって集まっていた」と、聖霊が注がれる条件が整っていた所に注がれた。
そこにあったものとは?
集まっている彼らの内的実情は、言うまでもなく肉のままでしかないとは言え、彼らには主の約束に対する期待感と、6節《 イスラエルの再興は? 》とお尋ねしたことへの、7節 「・・・あなたがたの知るところではありません」との叱責を受け、遅ればせながら主の言われる「聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受けます」に与りたいとする霊的一致があった。この日を迎えるまでの10日間には、15節以下の《 使徒職の欠員を埋める作業に立ち入ってしまったものの 》その心には分散がなかったことを意味する。
実に、2節 「すると天から突然」とは紛れもなく、マタイ18章19節 「地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます」の手応えを目で見える形、象徴的現象でその証を顕著にされた。
「激しい風が吹いて来たような」とは、聖霊が地上に降られた証しの為地響きを伴わせ、大々的・象徴的に知らせる聖霊の戴冠式なのだ。又、「炎のような舌が分かれて」においては、「聖霊と火とのバプテスマ」と言っておられたように、聖霊が物理的に火の持つ作用【汚れを焼き尽くす】をもって、一人一人に臨まれたと。
③ 聖霊が弟子たちに臨まれた決定的な証は、4節 「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」である。
弟子たちは、主の言われたように聖霊を受けるや否や、「御霊が語らせるままに」、他国の言葉で話し始めたのだ。何故なら、5節 「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいた(永住していたというより、離散者が帰還していたの意)」とあり、と共に、10、11節を見ると「・・・に住む者、また滞在中のローマ人で、ユダヤ人もいれば(ユダヤ教への)改宗者もいる・・・」と巡礼者への言及が。cf.【ペンテコステの巡礼者たち ─ 出身国】の地図を見ると、何と広範に及んでいるかが一目瞭然。この日を機に福音を全世界に向けて発信することが神の御心だったからであり、その必要の為、聖霊によって《 弟子たちに他国の言葉を話す力 》を与えられたのだ。
そこに居合わせた人々が、6、7節 「・・・呆気にとられてしまった。彼らは驚き、不思議に思って言った」、12、13節 「人々はみな驚き当惑して・・・嘲あざける者たちもいた」のも当然!!
聖霊に満たされた弟子たちの変貌ぶりが、如何に脅威的だったかが明らかに。
※ 聖霊降臨によって弟子たちが聖霊の満たしに与ること、この成就こそが主の贖いの完成【ガラテヤ3章13、14節】と同時に、神の国を迎える最終段階に入った画期的出来事だったと覚えて、襟を正し、教会の使命に邁進したい。
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