使徒の働き1章12~14節
先週は、主が、弟子たちに聖霊を受けて初めて主の復活の証人となると言われて昇天された時、御使いが「イエスは・・・またおいでになります」と告げられた再臨の予告に注目した!!
オメガ・ジャパンから入手した「黙示録シリーズ」の《 ヨハネの黙示録のテーマは、キリストの再臨にある 》と語られている内容を参考に、使徒1章11節を受けて※黙示録1章7節 「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は 彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン」のおことばを改めて熟考。
再臨はすべての人々が見るということについて【世界中の出来事をテクノロジーの発達によって見る時代に在って、イエス・キリストの再臨をも見ることになる】とは!!
ⅰ 主の直接的勧告 マタイ25章1~13節
3、4節 「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた」。ともしびとは、外見上キリスト者らしい形を取っている状態。油を持っているのか? いないのか? 内住の聖霊に一切の主導権を明け渡し、取りも直さず「神の国」を内に実現していること!!
ⅱ ペテロによる勧告 第二ペテロ3章全
11、12a節 「・・・どれほど聖なる敬虔な生き方を・・・そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早め・・・」るべきと。
※ こうした勧告は徹頭徹尾、主が昇天直前に約束された《 力である聖霊を 》受けることによってのみ現実的準備となる。内住の聖霊に明け渡されて生きるこの一点に留意をと!!
今朝は、12節 「そこで」と、主の「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」に従った弟子たちに注目したい。
13節 「・・・町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった」とあるのは、12章12節 「マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家」ではなかったかという説がある。このマルコは、パウロによる第一次伝道旅行に助手としてついて行ったが、後、一行から離れてエルサレムに戻ったことでも知られているが、後、立ち直ってパウロに有能な器と言われるまでになり、福音記者としての役割も担った人物。
祈りが何処であったにせよ、14節 「彼らはみな、・・・いつも心を一つにして祈っていた」とある《 心を一つにしていたとは? 》を考えたい。
① 内的・霊的渇きに見る一致
この祈りには使徒たちと共に、14節 「イエスの母マリア、およびイエスの兄弟たち」の名を見出せることが嬉しい。
主のご在世中、母マリアには主を救い主であると知る者としての行動を見るも、兄弟たちにおいては、主を並外れた存在と認めはしていたものの、ヨハネ7章5節 「イエスを信じていなかった」人々だったから。
それは、彼らの関心も一般的ユダヤ人同様、ヨハネ6章14節 「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」、15節 「王にするために連れて行こう」とすることにあったからだ。
彼らには、ヨハネ7章4節 「このようなことを行うのなら、自分を世に示し・・・」と世的な視点で主を見、主の奥床しさにもどかしさを感じ、表舞台に出そうと必死になっている様子が窺える。しかしその兄弟たちも主の復活を目撃するや、今日までの生き方を捨て、弟子たちに加わった。その加わり方も、ペテロが御使いによって牢から救出され、先のマルコの祈りの家を訪ねた時、ペテロから、12章17節 「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と《 エルサレム教会の柱 》として教会に仕えることをもって。
後、救いがユダヤ人のみならず、異邦人に及ぶに当たって生じて来た《 教会の死活問題解決の為の初めての教会会議 》では議長として立てられたのがこのヤコブ。
『使徒』では、「イエスの兄弟たち」と呼ばれてはいるが、彼ら自身からは、その様には名乗り出られるものではないとの弁わきまえをもって、ヤコブ1章1節 「キリストのしもべ」と告白し、ユダも又、1章1節 「イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟」とのみ伝える記者として用いられている。
両親から主の誕生にまつわる告知を聞いてはいたであろう、にも拘らずその弁えは、母の抱く信仰には至らず、唯、長男との認識だけの日々に在って、復活の主であるとは露だに思わなかった故の数々の言動に光が当てられ、申し訳なさを越えた痛みを知ったことによるのだろう。先に名を連ねている※13節の主の弟子たち、14節 「女たち」の《 復活を待ち望まなかったことに象徴する肉を痛み悲しむ 》心に同様、兄弟たちも又、悔恨の念に締め付けられての渇きが。
② 謙らせられる中で抱く、期待する信仰の一致。
「いつも心を一つにして祈っていた」とあるが、詳訳は、「待機しながら全く心を一つにして、ひたすら祈りに励んでいた」とある。待機しながらとは、彼らが復活を待たずに狼狽うろたえた失態ではなく、準備を整えて時期が来るのを待つという真剣な期待感を持っての姿勢である。
既に彼らの内に生じた悔いる砕かれた心に抱いた 期待する信仰があって初めて、祈りは応えられたのだ。
主から、4、5節 「父の約束を待ちなさい」、《 聖霊と火とのバプテスマ 》が授けられると聞いて、焼き尽くされるべき実際的・具体的な内的罪性の問題を明確にさせられながら待ち、漠然とした祈りではなく、その求めには、必ず約束が果たされるとの期待感を持っての祈り。
その待ち望みが主の御心に叶ったという証が、2章1、2節 「・・・皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った」という現象である。
かつてイサクの子ヤコブが、創世記32章26節 「わたしを去らせよ」言われた主を、「私はあなたを去らせません。私を祝福して下さらなければ」と、内的葛藤からの解放を期待し確信したように。彼のその祈りは応えられた。
※ 弟子たちの主への裏切りの全ては、第二コリント7章10節 「神のみこころに添った悲しみ」で 心を一つにした祈りとなって捧げられ、宣教の幕開けに備えられたことに留意を!!
先週は、主が、弟子たちに聖霊を受けて初めて主の復活の証人となると言われて昇天された時、御使いが「イエスは・・・またおいでになります」と告げられた再臨の予告に注目した!!
オメガ・ジャパンから入手した「黙示録シリーズ」の《 ヨハネの黙示録のテーマは、キリストの再臨にある 》と語られている内容を参考に、使徒1章11節を受けて※黙示録1章7節 「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は 彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン」のおことばを改めて熟考。
再臨はすべての人々が見るということについて【世界中の出来事をテクノロジーの発達によって見る時代に在って、イエス・キリストの再臨をも見ることになる】とは!!
ⅰ 主の直接的勧告 マタイ25章1~13節
3、4節 「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた」。ともしびとは、外見上キリスト者らしい形を取っている状態。油を持っているのか? いないのか? 内住の聖霊に一切の主導権を明け渡し、取りも直さず「神の国」を内に実現していること!!
ⅱ ペテロによる勧告 第二ペテロ3章全
11、12a節 「・・・どれほど聖なる敬虔な生き方を・・・そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早め・・・」るべきと。
※ こうした勧告は徹頭徹尾、主が昇天直前に約束された《 力である聖霊を 》受けることによってのみ現実的準備となる。内住の聖霊に明け渡されて生きるこの一点に留意をと!!
今朝は、12節 「そこで」と、主の「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」に従った弟子たちに注目したい。
13節 「・・・町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった」とあるのは、12章12節 「マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家」ではなかったかという説がある。このマルコは、パウロによる第一次伝道旅行に助手としてついて行ったが、後、一行から離れてエルサレムに戻ったことでも知られているが、後、立ち直ってパウロに有能な器と言われるまでになり、福音記者としての役割も担った人物。
祈りが何処であったにせよ、14節 「彼らはみな、・・・いつも心を一つにして祈っていた」とある《 心を一つにしていたとは? 》を考えたい。
① 内的・霊的渇きに見る一致
この祈りには使徒たちと共に、14節 「イエスの母マリア、およびイエスの兄弟たち」の名を見出せることが嬉しい。
主のご在世中、母マリアには主を救い主であると知る者としての行動を見るも、兄弟たちにおいては、主を並外れた存在と認めはしていたものの、ヨハネ7章5節 「イエスを信じていなかった」人々だったから。
それは、彼らの関心も一般的ユダヤ人同様、ヨハネ6章14節 「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」、15節 「王にするために連れて行こう」とすることにあったからだ。
彼らには、ヨハネ7章4節 「このようなことを行うのなら、自分を世に示し・・・」と世的な視点で主を見、主の奥床しさにもどかしさを感じ、表舞台に出そうと必死になっている様子が窺える。しかしその兄弟たちも主の復活を目撃するや、今日までの生き方を捨て、弟子たちに加わった。その加わり方も、ペテロが御使いによって牢から救出され、先のマルコの祈りの家を訪ねた時、ペテロから、12章17節 「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と《 エルサレム教会の柱 》として教会に仕えることをもって。
後、救いがユダヤ人のみならず、異邦人に及ぶに当たって生じて来た《 教会の死活問題解決の為の初めての教会会議 》では議長として立てられたのがこのヤコブ。
『使徒』では、「イエスの兄弟たち」と呼ばれてはいるが、彼ら自身からは、その様には名乗り出られるものではないとの弁わきまえをもって、ヤコブ1章1節 「キリストのしもべ」と告白し、ユダも又、1章1節 「イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟」とのみ伝える記者として用いられている。
両親から主の誕生にまつわる告知を聞いてはいたであろう、にも拘らずその弁えは、母の抱く信仰には至らず、唯、長男との認識だけの日々に在って、復活の主であるとは露だに思わなかった故の数々の言動に光が当てられ、申し訳なさを越えた痛みを知ったことによるのだろう。先に名を連ねている※13節の主の弟子たち、14節 「女たち」の《 復活を待ち望まなかったことに象徴する肉を痛み悲しむ 》心に同様、兄弟たちも又、悔恨の念に締め付けられての渇きが。
② 謙らせられる中で抱く、期待する信仰の一致。
「いつも心を一つにして祈っていた」とあるが、詳訳は、「待機しながら全く心を一つにして、ひたすら祈りに励んでいた」とある。待機しながらとは、彼らが復活を待たずに狼狽うろたえた失態ではなく、準備を整えて時期が来るのを待つという真剣な期待感を持っての姿勢である。
既に彼らの内に生じた悔いる砕かれた心に抱いた 期待する信仰があって初めて、祈りは応えられたのだ。
主から、4、5節 「父の約束を待ちなさい」、《 聖霊と火とのバプテスマ 》が授けられると聞いて、焼き尽くされるべき実際的・具体的な内的罪性の問題を明確にさせられながら待ち、漠然とした祈りではなく、その求めには、必ず約束が果たされるとの期待感を持っての祈り。
その待ち望みが主の御心に叶ったという証が、2章1、2節 「・・・皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った」という現象である。
かつてイサクの子ヤコブが、創世記32章26節 「わたしを去らせよ」言われた主を、「私はあなたを去らせません。私を祝福して下さらなければ」と、内的葛藤からの解放を期待し確信したように。彼のその祈りは応えられた。
※ 弟子たちの主への裏切りの全ては、第二コリント7章10節 「神のみこころに添った悲しみ」で 心を一つにした祈りとなって捧げられ、宣教の幕開けに備えられたことに留意を!!
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