聖日礼拝『使徒の働き』より 3


使徒の働き1章3~8節

 先週は3節b、死からの復活後、弟子たちとの話題・主題が、何故「神の国」についてだったのかについて考えた。

ⅰ 先ず、主の宣教開始が、マルコ1章15節 「時が満ち、神の国が近づいた」、ルカ4章43節b 「そのために遣わされた」と、この世への派遣の目的がここにあったから。
 「神の国」とは神を王・主権者とし、神が統治される国のこと。神が、創世記1章1節 「はじめ・・・天と地を創造され」て宇宙の王としてご自身を現し、初めの人アダムとエバを《 神との交わりによる贅沢・優美・喜びを意味する園 》に置かれ、《 神を王として崇敬する関係で心が満たされる国 》こそが「神の国・天の御国・永遠のいのち」なのだ。しかし神に背き、自らをこの世の支配下に置いた人類を愛し、命をもって買い取り「神の国」に移すべく主は宣教された。
 合わせて主が、「神の国」を語られる時に《 すでに来ている/未だこれから 》と、二通り言っておられた点に触れた。
a.《 既に 》悔い改めて神に立ち返った者たちに成就。
b.《 未だ 》主の再臨で成就する「神の国」のこと。

ⅱ 又、弟子たちの宣教の目的も、主に同様だったから。
 主は弟子たちを、マタイ13章52節 詳訳 「天の御国の為に教育・訓練・弟子とされた教師」と言われ、10章7節 「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい」と、宣教の目指すところは主と同じ「神の国」であると。

※ 『使徒の働き』巻末は30年後、福音はローマでも28章30、31節 「宣べ伝え」られ、聖書巻末 黙示録22章20節 「わたしはすぐに来る」とあり、互いの最大関心事としたいと!!


 今朝は、復活後弟子たちに「神の国のことを語られた」主が、4節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と命令されたおことばに注目したい。
 この「父の約束 ⇒ 父によって約束されていた事柄」とは、「聖霊によるバプテスマを授けられる ⇒ 聖霊の中に置かれる、聖霊に浸る」ことである。2章で聖霊が注がれた時、ペテロが※16~21節でヨエル書を引用しているように、B.C.800年前半頃? 予め預言されていたことだが、主が「わたしから聞いた」となると、最後の晩餐の席でのこと、懇々と、ヨハネ14~16章の中の、14章16節 「・・・父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます」と言われた時のこと。

① 何故、主は「父の約束を待ちなさい」と命じられたのか?

 それは、ひとえに、8節 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」とあるから。
 即ち、「証人」とは「殉教者」を意味するが、弟子たちが主から託された宣教の働きに命を懸けるであろうその生涯は「聖霊があなたがたの上に臨むとき」に初めて叶うからだと。換言するならば、今のままでは、到底成し遂げられるものではないからだ。彼らの今のままでは・・・とは?
 主が厳かにも、4、5節で、「父の約束を待ちなさい」と言われた時、6節 「そこで」と出た弟子たちの反応で明白!!
 彼らは「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」だったのだ!!
 彼らのこの質問を受けて語られた主の※7節 「いつとか、どんな時とかということは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです」と明言されたおことばは、彼らに深く根付いている有形的願望への明らかな警告・忠告である。
 ルカ24章19~21節 「・・・預言者でした。それなのに・・・。私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みを・・・。実際・・・」と悲嘆に暮れたことばにも窺うかがえるが、ユダヤ人が隷属するローマ帝国からの独立への望みである。
 主が40日間、「神の国のことを語られた」にも拘らず、弟子たちは理解していなかった。主の復活に何ら期待しなかった弟子たちの肉を取り扱った※マタイ17章23節 「・・・すると彼らはたいへん悲しんだ」に通じる肉!!
 主が語られるおことばのどれ程も理解出来ない弟子たちの問題は、彼らの関心事が肉的・世的望みに縛られていたことで、ガラテヤ5章19~21節 「神の国」とは相容れないから。

 7節 詳訳 「時がもたらすもの〈時の中に起こる諸事件〉と〈その明確な期間〉確定した年や季節〈その決定的な時刻〉は、父がご自分の権威によって確定し留保されているものであって、あなたがたが親しく知るところではない」と。神の秘密に属することで、人の関与すべきことではない。
 弟子の最大の関心事は、8節 「しかし、聖霊・・・を受け・・・証人とな」るこの一点にこそあるべきと厳格に言われた。
 この「聖霊が臨むとき、力を受ける」とは《 力であられる聖霊ご自身を人格者としてお迎えする 》ことで、その時にだけ「わたしの証人とな」ると!! どのようにして?
 5節 「聖霊によるバプテスマ」について、マタイ3章11節d 「その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられ」ると、主が十字架で血潮を流し、聖霊がその血を弟子たちにあてがって《 赦しのみならず、汚れを焼き尽くす火の如き効力をもって、内的汚れを清め 》ることによって。

② 何故、「エルサレムを離れないで」と命じられたのか?

 エルサレムは《 愛する主を奪い取った 》町。憎しみの限りを尽くして主を処刑した町。何といやしくもその主を敵の手から守れず、主を見捨て自分たちの卑怯さを露呈した町。一刻も早く記憶から抹消したい町。主の処刑後、指名手配? との恐怖から、直ちにはガリラヤへ戻るに戻れず、ユダヤ人を恐れながら一室の戸に鍵を掛けて身を潜めていなければならなかった敵陣「エルサレムを離れないで」と。
 しかし主は、その弟子たちを熟知の上で、敵陣だからこそ留まらせ、ご自身を呪って拒絶した町だからこそ主の愛を実践すべく「エルサレムから」と宣教の拠点とすべく命じられた。何故なら主は、ルカ19章41~44節と、彼らがやがて迎えるであろう滅びを知ってむせび泣くお方だから。

※ マタイ5章43~48節 「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために・・・」と、主の道に歩む招きに従う弟子でありたい。

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