使徒の働き1章3節
先週から『使徒の働き』連講に入り、先ず、1節から書名を再考した。前書ルカの福音書が、主の「行い始め、また教え始められたすべてのことについて」ならば、本書は、その後引き続き主が「行い、教え」られ『昇天後も尚 続けて働かれた主の働き』の書であると、4節は主がかつて、明確にされた通り。
即ち、『使徒の働き』における ローマ帝国を相手どって繰り広げられた宣教の働きに直接命を賭して闘ったのは使徒たちであるが、あくまでも、その働きの全ては《 主ご自身が8節 「聖霊」によって継続的に働かれる働き 》だったと。
先ず主が、昇天直前までも※2節 「聖霊によって」だった主のご生涯は実は初めからのことだった点に注目。
ⅰ ご降誕が聖霊によったこと。マリアに※ルカ1章35節 「聖霊があなたの上に・・・」、ヨセフに※マタイ1章20節 「その胎に宿っている子は聖霊による」との御使いの告知で明白。
ⅱ 受洗時に、マタイ3章16、17節と、聖霊を内住のお方として迎えられ、それ以降聖霊によって生きるお方となられた。
ⅲ 聖霊の満たしを受けるや否や、マルコ1章12節 詳訳 「直ぐに、聖霊は内側からイエスを荒野に追いやられ」、聖霊の熱心をもって悪魔の誘惑に導かれ、主の聖父への忠誠が試されたが、聖霊によって勝利されたお方。
ⅳ 荒野での試み後、ルカ4章14節 「御霊の力を帯びてガリラヤに」と、本格的なご奉仕を開始されたこと。十字架での死も又、へブル9章14節 「御霊によっ」た。
※ 今も主は、御霊に在って「世の終わりまで」働かれるお方と覚えつつ学びを始めたいと。
今朝は、3節b 「四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた」ことから、死からの復活後、弟子たちとの話題・主題が「神の国」についてだったと、、何故、主の復活後の話題が「神の国」についてだったのかについて考えたい。
① 先ず主は、マルコ1章15節 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とのことばをもって宣教を開始され、ルカ4章43節b 「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」と、この世に来られた派遣の目的がここにあったからである。
「神の国の福音【素晴らしい知らせ】」を伝える為にと。
この「神の国」とは、神を王とする国、神が主権者であり、神の意図されたことをもって統治された国のこと。
そもそも、神とは、創世記1章1節 「はじめに神が天と地を創造された」時以来、宇宙の王としてご自身を現し、人類が創造された時には、31節 「・・・見よ、それは非常に良かった」と言われたお方。
その時、アダムとエバには、同26~28節 「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ・・・支配せよ」と、神の主権の下に人類の《 地上の管理を委ねられての 》計画が稼働した筈、今もそうあるべきなのだ。それこそ2章10~17節、エデン【祝福に満ちた園、贅沢な・優美な・楽しい・喜ばしい・パラダイス】の園、実に、川が流れ、それらの川々に囲まれた園で《 神との交わりの生活 》が始まった。ところが、人の不従順、神との契約を破り、神の意図を振り切って己の物差しを持って生きる者となって以来、地球も人類も・・・神の主権を蔑ないがしろにした為、「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみを ローマ8章22節」しており、3章15節 「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」というキリストの誕生による回復が待たれることになった。黙示録2章7節には、「勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある」とある。
従って、「神の国の素晴らしい知らせを伝える為」とあるのは、サタンの頭を砕くという十字架からの復活による勝利によってもたらされる《 神と人類の和解 & 神の国に入る為の悔い改めを伝える為 》ご自身を捧げられたのだ。
「天の御国」とも言われ、又、ヨハネの福音書では、3章でのニコデモとの会話に二度出て来るに過ぎないが、同16節では「永遠のいのち」ということばに置き換えている。又、18章のピラトとのやり取りでは、36節 「わたしの国はこの世のものではありません」ともあるように、神ご自身が王である国のこと。
本来アダムとエバがその初めに置かれた《 エデンの園 》が意味している、神との交わりによる喜び、神を王として崇敬し、神の喜びの為にあることから来る喜びで満たされる国こそが《 神の国・天の御国・永遠のいのち 》なのだ。
堕落して「この世のもの」となった人類を、主は命をもって買い取り「わたしの国」に移すべく主は宣教された。
唯主が、「神の国」を語られる時に《 すでに来ている & 未だこれから 》と、二通り言っておられた点に触れたい。
a.《 既に 》マタイ12章28節 「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに」と、悔い改めて神に立ち返った者たちに成就。
b.《 未だ 》主の再臨で成就する「神の国」のことで、ローマ8章18~25節 「・・・私たちのからだが贖あがなわれることを待ち望みながら、心の中でうめいてい」ると。山上の垂訓から始まり、再臨を待ち望む者の姿勢についての たとえ話など、実に主は頻繁に「神の国」と語っておられることを再認識させられる。
② 弟子たちの宣教の目的も又、主に同様だから。
主は弟子たちのことを、マタイ13章52節 詳訳 「天の御国の為に教育・訓練・弟子とされた教師」と言われ、10章7節 「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい」、24章14節 「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」と、その宣教の目指すところは主と同じ「神の国」だったから。
『使徒の働き』の巻末は、エルサレムから始まった福音が30年後、囚人となったパウロによってローマまで運ばれ、28章30、31節 「・・・神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」とある。
※ 聖書の巻末は黙示録22章20節 「しかり、わたしはすぐに来る」であると覚え、お互いの最大の関心事とすべき!!
先週から『使徒の働き』連講に入り、先ず、1節から書名を再考した。前書ルカの福音書が、主の「行い始め、また教え始められたすべてのことについて」ならば、本書は、その後引き続き主が「行い、教え」られ『昇天後も尚 続けて働かれた主の働き』の書であると、4節は主がかつて、明確にされた通り。
即ち、『使徒の働き』における ローマ帝国を相手どって繰り広げられた宣教の働きに直接命を賭して闘ったのは使徒たちであるが、あくまでも、その働きの全ては《 主ご自身が8節 「聖霊」によって継続的に働かれる働き 》だったと。
先ず主が、昇天直前までも※2節 「聖霊によって」だった主のご生涯は実は初めからのことだった点に注目。
ⅰ ご降誕が聖霊によったこと。マリアに※ルカ1章35節 「聖霊があなたの上に・・・」、ヨセフに※マタイ1章20節 「その胎に宿っている子は聖霊による」との御使いの告知で明白。
ⅱ 受洗時に、マタイ3章16、17節と、聖霊を内住のお方として迎えられ、それ以降聖霊によって生きるお方となられた。
ⅲ 聖霊の満たしを受けるや否や、マルコ1章12節 詳訳 「直ぐに、聖霊は内側からイエスを荒野に追いやられ」、聖霊の熱心をもって悪魔の誘惑に導かれ、主の聖父への忠誠が試されたが、聖霊によって勝利されたお方。
ⅳ 荒野での試み後、ルカ4章14節 「御霊の力を帯びてガリラヤに」と、本格的なご奉仕を開始されたこと。十字架での死も又、へブル9章14節 「御霊によっ」た。
※ 今も主は、御霊に在って「世の終わりまで」働かれるお方と覚えつつ学びを始めたいと。
今朝は、3節b 「四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた」ことから、死からの復活後、弟子たちとの話題・主題が「神の国」についてだったと、、何故、主の復活後の話題が「神の国」についてだったのかについて考えたい。
① 先ず主は、マルコ1章15節 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とのことばをもって宣教を開始され、ルカ4章43節b 「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」と、この世に来られた派遣の目的がここにあったからである。
「神の国の福音【素晴らしい知らせ】」を伝える為にと。
この「神の国」とは、神を王とする国、神が主権者であり、神の意図されたことをもって統治された国のこと。
そもそも、神とは、創世記1章1節 「はじめに神が天と地を創造された」時以来、宇宙の王としてご自身を現し、人類が創造された時には、31節 「・・・見よ、それは非常に良かった」と言われたお方。
その時、アダムとエバには、同26~28節 「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ・・・支配せよ」と、神の主権の下に人類の《 地上の管理を委ねられての 》計画が稼働した筈、今もそうあるべきなのだ。それこそ2章10~17節、エデン【祝福に満ちた園、贅沢な・優美な・楽しい・喜ばしい・パラダイス】の園、実に、川が流れ、それらの川々に囲まれた園で《 神との交わりの生活 》が始まった。ところが、人の不従順、神との契約を破り、神の意図を振り切って己の物差しを持って生きる者となって以来、地球も人類も・・・神の主権を蔑ないがしろにした為、「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみを ローマ8章22節」しており、3章15節 「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」というキリストの誕生による回復が待たれることになった。黙示録2章7節には、「勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある」とある。
従って、「神の国の素晴らしい知らせを伝える為」とあるのは、サタンの頭を砕くという十字架からの復活による勝利によってもたらされる《 神と人類の和解 & 神の国に入る為の悔い改めを伝える為 》ご自身を捧げられたのだ。
「天の御国」とも言われ、又、ヨハネの福音書では、3章でのニコデモとの会話に二度出て来るに過ぎないが、同16節では「永遠のいのち」ということばに置き換えている。又、18章のピラトとのやり取りでは、36節 「わたしの国はこの世のものではありません」ともあるように、神ご自身が王である国のこと。
本来アダムとエバがその初めに置かれた《 エデンの園 》が意味している、神との交わりによる喜び、神を王として崇敬し、神の喜びの為にあることから来る喜びで満たされる国こそが《 神の国・天の御国・永遠のいのち 》なのだ。
堕落して「この世のもの」となった人類を、主は命をもって買い取り「わたしの国」に移すべく主は宣教された。
唯主が、「神の国」を語られる時に《 すでに来ている & 未だこれから 》と、二通り言っておられた点に触れたい。
a.《 既に 》マタイ12章28節 「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに」と、悔い改めて神に立ち返った者たちに成就。
b.《 未だ 》主の再臨で成就する「神の国」のことで、ローマ8章18~25節 「・・・私たちのからだが贖あがなわれることを待ち望みながら、心の中でうめいてい」ると。山上の垂訓から始まり、再臨を待ち望む者の姿勢についての たとえ話など、実に主は頻繁に「神の国」と語っておられることを再認識させられる。
② 弟子たちの宣教の目的も又、主に同様だから。
主は弟子たちのことを、マタイ13章52節 詳訳 「天の御国の為に教育・訓練・弟子とされた教師」と言われ、10章7節 「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい」、24章14節 「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」と、その宣教の目指すところは主と同じ「神の国」だったから。
『使徒の働き』の巻末は、エルサレムから始まった福音が30年後、囚人となったパウロによってローマまで運ばれ、28章30、31節 「・・・神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」とある。
※ 聖書の巻末は黙示録22章20節 「しかり、わたしはすぐに来る」であると覚え、お互いの最大の関心事とすべき!!
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