使徒の働き1章1、2節
先週は、ペテロの愛を確認されて後 「羊を飼いなさい」と命じられた主が、その責務を果たす上での最重要事は※21章22節にあると言われたことに学んで、ヨハネの連講を締め括った。
ⅰ そもそも《 主に従う 》とは? 18、19節、神の栄光の為に「自らの望む所」を捨てる生き方のこと〈マタイ16章24節〉。
ⅱ あくまでも《 主に従う 》とは、主との極めて個人的な関係であること。
15~17節で心を痛めたペテロは、主が※18節 詳訳 「わたしは真実を最も真実にあなたに言います。あなたは・・・」と続けられるおことばに厳かさを感じ、不安になった為か? ペテロの※20節 「振り向いて」ヨハネを見た時の※21節 「主よ、この人はどうなのですか」の仕草に痛々しさを覚えた。
弟子たちの互いの間に優劣を競う肉があったが、主は、最後の晩餐で、ルカ22章28節 「わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた」と評価された戦友、仲間。
ここで主は、間もなく聖霊によって誕生する教会の世界宣教に向けての育成を見越され、「あなたは、わたしに」と、主との関係の確立があってのみ健全な教会建設、結婚関係、親子関係、あらゆる人間関係の健全性があると言われた。
主はヨハネにも※22節に見るご計画をお持ちで、彼がどの様な道を歩むことになろうと、ペテロの関与すべきことではなく、彼に持つ思いは、主と彼との関係の確立をのみ。
※ いつでも、「あなたの問題にすべきことなのか。あなたは、わたしに従いなさい」と《 あなたは、わたしに 》との関係をのみと尋ねる主に、「はい」と応えるお互いでありたいと。
先週を以って74回で終えた『ヨハネの福音書』の連講に次いで、今朝から『使徒の働き』を《 2000年、2015年と既に二回学んでいるが 》これまでとは趣きを変えての学びを進めて行きたい。
その為先ず、確認しておきたい。書名は『使徒の働き』だが、正確には、1節が説明している内容から考えたい。
「私は前の書で」とは言うまでもなく、『ルカの福音書』であるが、ルカは、その書では「イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました」と言っている。2節 「それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした」とある。
そうすると、9節で「イエスは・・・上げられた」とあることから、昇天までの内容となる※3~11節は、福音書と重なることになる。即ち、復活されてから昇天までの40日間、主が弟子たちと交わされた会話のことであるが。
ルカの福音書のみならず、これまで学んで来たヨハネの福音書から、ルカでは取り上げられていなかった「イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて」《 主の行い、教え ⇒ ヨハネ21章24、25節 》を見て来た。
書名を考えるのはここ!! 福音書はあくまでも、主が「行い始め、また教え始められたすべてのことについて」だとするならば、今日から学ぶ『使徒の働き』は、その後更に、引き続いて主が「行い、教え」られたことについての記録となる。ですから最も相応しい書名は、『昇天後も尚 続けて働かれた主の働き』否、厳密には今も継続しているのだが。
更にこの理解の上で、確認しておきたい。主がかつての最後の晩餐でのこと、ヨハネ14章12節 「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです」、16~19節 「・・・助け主・・・真理の御霊です。・・・この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」。
ここで明確にしておられることは【弟子たちが主のわざを行う、しかも更に大きなわざを/聖霊が内住のお方となられることによって、主が弟子たちの所に戻って来ること】。
即ち、『使徒の働き』における ローマ帝国を相手どって繰り広げられた 宣教の働きで闘ったのは使徒たちである。
しかしあくまでも強調されていることは、その働きの全ては《 主ご自身が継続して働かれる働きであり、厳密には、8節 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます」とある内住の聖霊 》によって為されると。
このような訳で、初めに、これまでの学びとは趣きを変えていくと言った理由はここにある。この書は、福音が※8節 「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」と、聖霊降臨の日に誕生した教会が、たった30年間でどの様にして地中海沿岸を埋め尽くして行ったのか、その目覚ましい発展振りを伝えているが、焦点を弟子たちの動きにではなく、彼らを宣教に駆り立てられた主が今も聖霊によって如何に働かれているかに焦点を当てていきたい。
今朝は先ず、2節 「それは【主が】、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた」の聖句から、使徒たちを通して、今も尚 私たちを通して《 聖霊によって働かれる 主の地上生涯が聖霊によって始められ、聖霊によってご奉仕を全うされた 》ということに注目して、この書の初めの学びとしたい。
Ⅰ. 主のご降誕が聖霊によったこと。
ルカ1章35節でマリアに、マタイ1章20節でヨセフに顕現した御使いガブリエルによる告知で明白。
Ⅱ. 主の受洗時に、マタイ3章16、17節 「天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧に」と、この時以来、主は聖霊を内住のお方として迎えられたこと。
Ⅲ. 主は聖霊の満たしを受けるや否や、マルコ1章12節 詳訳 「直ぐに、聖霊は内側からイエスを荒野に追いやられた」とあり、聖霊は熱心をもって悪魔によって、主の聖父への忠誠が試されることを許し、勝利させておられること。
Ⅳ. 主は荒野での試み後、ルカ4章14節 「御霊の力を帯びてガリラヤに」と、本格的なご奉仕を開始されたこと。
16~21節 「主の霊がわたしの上にある」と、主はご自身の神としての権能を用いず、悉ことごとく内住の聖霊によってのみで生涯を貫かれた〈へブル9章14節、ローマ8章11節〉。
※ 今も主は、使徒16章7節 「イエスの御霊 ⇒ 人の子となられた主に内住して人間性をよく知るお方となった御霊」に在って、「世の終わりまで」働かれるお方と覚えつつ学びを!!
先週は、ペテロの愛を確認されて後 「羊を飼いなさい」と命じられた主が、その責務を果たす上での最重要事は※21章22節にあると言われたことに学んで、ヨハネの連講を締め括った。
ⅰ そもそも《 主に従う 》とは? 18、19節、神の栄光の為に「自らの望む所」を捨てる生き方のこと〈マタイ16章24節〉。
ⅱ あくまでも《 主に従う 》とは、主との極めて個人的な関係であること。
15~17節で心を痛めたペテロは、主が※18節 詳訳 「わたしは真実を最も真実にあなたに言います。あなたは・・・」と続けられるおことばに厳かさを感じ、不安になった為か? ペテロの※20節 「振り向いて」ヨハネを見た時の※21節 「主よ、この人はどうなのですか」の仕草に痛々しさを覚えた。
弟子たちの互いの間に優劣を競う肉があったが、主は、最後の晩餐で、ルカ22章28節 「わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた」と評価された戦友、仲間。
ここで主は、間もなく聖霊によって誕生する教会の世界宣教に向けての育成を見越され、「あなたは、わたしに」と、主との関係の確立があってのみ健全な教会建設、結婚関係、親子関係、あらゆる人間関係の健全性があると言われた。
主はヨハネにも※22節に見るご計画をお持ちで、彼がどの様な道を歩むことになろうと、ペテロの関与すべきことではなく、彼に持つ思いは、主と彼との関係の確立をのみ。
※ いつでも、「あなたの問題にすべきことなのか。あなたは、わたしに従いなさい」と《 あなたは、わたしに 》との関係をのみと尋ねる主に、「はい」と応えるお互いでありたいと。
先週を以って74回で終えた『ヨハネの福音書』の連講に次いで、今朝から『使徒の働き』を《 2000年、2015年と既に二回学んでいるが 》これまでとは趣きを変えての学びを進めて行きたい。
その為先ず、確認しておきたい。書名は『使徒の働き』だが、正確には、1節が説明している内容から考えたい。
「私は前の書で」とは言うまでもなく、『ルカの福音書』であるが、ルカは、その書では「イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました」と言っている。2節 「それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした」とある。
そうすると、9節で「イエスは・・・上げられた」とあることから、昇天までの内容となる※3~11節は、福音書と重なることになる。即ち、復活されてから昇天までの40日間、主が弟子たちと交わされた会話のことであるが。
ルカの福音書のみならず、これまで学んで来たヨハネの福音書から、ルカでは取り上げられていなかった「イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて」《 主の行い、教え ⇒ ヨハネ21章24、25節 》を見て来た。
書名を考えるのはここ!! 福音書はあくまでも、主が「行い始め、また教え始められたすべてのことについて」だとするならば、今日から学ぶ『使徒の働き』は、その後更に、引き続いて主が「行い、教え」られたことについての記録となる。ですから最も相応しい書名は、『昇天後も尚 続けて働かれた主の働き』否、厳密には今も継続しているのだが。
更にこの理解の上で、確認しておきたい。主がかつての最後の晩餐でのこと、ヨハネ14章12節 「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです」、16~19節 「・・・助け主・・・真理の御霊です。・・・この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」。
ここで明確にしておられることは【弟子たちが主のわざを行う、しかも更に大きなわざを/聖霊が内住のお方となられることによって、主が弟子たちの所に戻って来ること】。
即ち、『使徒の働き』における ローマ帝国を相手どって繰り広げられた 宣教の働きで闘ったのは使徒たちである。
しかしあくまでも強調されていることは、その働きの全ては《 主ご自身が継続して働かれる働きであり、厳密には、8節 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます」とある内住の聖霊 》によって為されると。
このような訳で、初めに、これまでの学びとは趣きを変えていくと言った理由はここにある。この書は、福音が※8節 「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」と、聖霊降臨の日に誕生した教会が、たった30年間でどの様にして地中海沿岸を埋め尽くして行ったのか、その目覚ましい発展振りを伝えているが、焦点を弟子たちの動きにではなく、彼らを宣教に駆り立てられた主が今も聖霊によって如何に働かれているかに焦点を当てていきたい。
今朝は先ず、2節 「それは【主が】、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた」の聖句から、使徒たちを通して、今も尚 私たちを通して《 聖霊によって働かれる 主の地上生涯が聖霊によって始められ、聖霊によってご奉仕を全うされた 》ということに注目して、この書の初めの学びとしたい。
Ⅰ. 主のご降誕が聖霊によったこと。
ルカ1章35節でマリアに、マタイ1章20節でヨセフに顕現した御使いガブリエルによる告知で明白。
Ⅱ. 主の受洗時に、マタイ3章16、17節 「天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧に」と、この時以来、主は聖霊を内住のお方として迎えられたこと。
Ⅲ. 主は聖霊の満たしを受けるや否や、マルコ1章12節 詳訳 「直ぐに、聖霊は内側からイエスを荒野に追いやられた」とあり、聖霊は熱心をもって悪魔によって、主の聖父への忠誠が試されることを許し、勝利させておられること。
Ⅳ. 主は荒野での試み後、ルカ4章14節 「御霊の力を帯びてガリラヤに」と、本格的なご奉仕を開始されたこと。
16~21節 「主の霊がわたしの上にある」と、主はご自身の神としての権能を用いず、悉ことごとく内住の聖霊によってのみで生涯を貫かれた〈へブル9章14節、ローマ8章11節〉。
※ 今も主は、使徒16章7節 「イエスの御霊 ⇒ 人の子となられた主に内住して人間性をよく知るお方となった御霊」に在って、「世の終わりまで」働かれるお方と覚えつつ学びを!!
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