ヨハネの福音書21章18~25節
先週は、主が《 「岸辺」のお方が「主だ」と叫ぶヨハネの声を聞いて懸命に主の許に急いだ 》ペテロを、個人的に優しくではあるが極めて厳格に扱われた感動的場面に学んだ。
ⅰ 主が、静まり返ったティベリア湖畔の静寂を破って《 他の弟子にではなく、先ずペテロに 》声を掛けられたことに。
主は実に、ペテロが誰よりも主に会いたく願っていたか、又誰よりも主を必要としていたかを知っておられたからだ。
ⅱ 主が《 ペテロからの声を待たずに、先ずご自身からペテロの愛を、しかも三度も確認される 》ことによって。
それは、ペテロのずぶ濡れのまま、主の差し出された魚とパンを黙って食している姿を見るだけで十分だったから。
ペテロは※15d~17b’節で、以前のような勢いは打ち砕かれ、静かではあるが、主への真剣な愛を告白した。とことんまでご自身への愛を、あの裏切者の自分に求めてくださる《 過去の全てを不問に付して尚 期待するご愛 》に心を痛めた。
ⅲ 主の方から《 ペテロの召命を明確にされる 》ことによって。
主はペテロの心《 主を愛することだけは確か!! しかし、いやしくも召命だけは到底相応しいとは思えないとする 》をご存じで、主の方から《 魚を捕る漁師に帰る必要はない、あなたは羊飼い 》と命じられた。もう既に主の生き方にその模範を見ている!! 「子羊、羊」と様々な羊の必要に応えるべく、「わたしの」と、ローマ14章15節 「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人」と覚えての牧会を!!
※ 第一ヨハネ4章19節 「神がまず私たちを愛してくださった」故に、ペテロが生かされ、私たちも、と感謝したいと。
今朝は、ペテロにご自身への愛を確認された直後、「羊を飼いなさい」と命じられた主が、その責務を果たす為の最重要事は、22節 「あなたは、わたしに従いなさい」にあると迫られたおことばに学んで、連講の最後を締め括りたい。
① そもそも、この《 主に従う 》とは?
18、19節 「あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」、「イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである」とあるが、神の栄光の為に、「自らの望むところ」を捨てる生き方のこと。愛が確認されて初めて、この従うという在り方が求められるのである。愛なくして成立しない。
マタイ16章24節 「・・・と思うなら、自分を捨て【詳訳:自分の権利を捨て、自分の利益を無視し、それに目もくれず】、自分の十字架を負って、わたしに従って【詳訳:主に堅くよりすがり、生きるのにも、又必要ならば、死ぬのにも、全面的に主の模範にならい】来なさい」である。
従って、従うという時に求められることとは、主に従わせまいとさせる「自分 ・・・生来の性質をもって生きようとする自我」を憎み、死に至らせる魂の姿勢である。
主はもう既に弟子となっていたペテロたちに言われたのだ。それは主のおことばに単に頷うなずく者が弟子ではなく、主の聖父に従われたその歩みに倣う時にだけ弟子であるからだ。
② あくまでも《 主に従う 》とは?
主との極めて個人的な関係であること。
ペテロは扱われて、初めて知った。
彼は、15~17節で主の愛に「心を痛め」た感動の余韻に浸る間もなく、主への愛が確認されるや、18節 「まことに、まことに、あなたに言います」と、主から改まった口調で将来に起こるとの重大な※19節 「死に方」の予告を受け、直ちに「わたしに従いなさい」と言われた時にである。
ペテロの咄嗟の衝動は、20節 「振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た」、21節 「ペテロは彼を見て、『主よ、この人はどうなのですか』とイエスに言った」。その時、主は、22節 詳訳 「もし、わたしの来る時まで彼を留まらせる【生き延びさせる、いのちを保たせる】ことを望むとしても、それがあなたに何の関係があるのか〈あなたの問題にすべきことなのか〉。あなたは、わたしに従いなさい」と、彼に忠告しなければならなくされた。
ペテロは、主が※18節 詳訳 「わたしは真実を最も真実にあなたに言います」とは 如何にも厳粛な響きをもって、「あなたは若いときには、・・・あなたは両手を・・・あなたに帯をして・・・」と言われるので、“ 私個人への語り掛けである ” とは思ったに違いないが、彼の、20節 「振り向いて・・・来るのを見た」という仕草を見る時、周りにいる弟子たちが気になった様子には痛々しさを感じられないだろうか!!
独りでとした時の不安感? 仮にもしそれが私への予告だとしても、ヨハネはどうなのだろう? との思いが生じた。
弟子たちの互いの間には、優劣を競い合う肉があったが、それでも主は、最後の晩餐の席で、ルカ22章28節 「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです」と、評価された戦友・仲間だった。
特に、ペテロとヨハネとは、ヤコブと共に特別な訓練を授かった間柄。20節 「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」とヨハネが聞いたのも、ペテロの合図によった〈13章24節〉。
互いが互いを必要とする密着した関係にあった間柄。
しかしここで主は、弟子たちが間もなく聖霊によって教会の誕生を見ることになり、世界宣教に向けて誕生した教会の育成に携わるその時を見越して、13章35節 「互いの間に愛があるなら・・・」との聖霊による愛の繋がりが求められるが、それは個々人の主との関係が確立されて初めて健全に保たれるものであると。
換言するなら、「あなたは、わたしに」という主との関係の確立があってのみ、健全な教会建設、夫婦関係、親子関係、あらゆる人間関係の健全性が許されると言われたのだ。
主はヨハネにも、22節 「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても・・・」と、ご計画をお持ちで、彼がどの様な道を歩むことになろうが、ペテロが関与すべきではなく、彼を思うなら、主と彼との関係の確立をのみ。
※ いつでも、「あなたの問題にすべきことなのか。あなたは、わたしに従いなさい」と《 あなたは、わたしに 》との関係をのみ尋ねられるに主に「はい」と応えるお互いでありたい。
先週は、主が《 「岸辺」のお方が「主だ」と叫ぶヨハネの声を聞いて懸命に主の許に急いだ 》ペテロを、個人的に優しくではあるが極めて厳格に扱われた感動的場面に学んだ。
ⅰ 主が、静まり返ったティベリア湖畔の静寂を破って《 他の弟子にではなく、先ずペテロに 》声を掛けられたことに。
主は実に、ペテロが誰よりも主に会いたく願っていたか、又誰よりも主を必要としていたかを知っておられたからだ。
ⅱ 主が《 ペテロからの声を待たずに、先ずご自身からペテロの愛を、しかも三度も確認される 》ことによって。
それは、ペテロのずぶ濡れのまま、主の差し出された魚とパンを黙って食している姿を見るだけで十分だったから。
ペテロは※15d~17b’節で、以前のような勢いは打ち砕かれ、静かではあるが、主への真剣な愛を告白した。とことんまでご自身への愛を、あの裏切者の自分に求めてくださる《 過去の全てを不問に付して尚 期待するご愛 》に心を痛めた。
ⅲ 主の方から《 ペテロの召命を明確にされる 》ことによって。
主はペテロの心《 主を愛することだけは確か!! しかし、いやしくも召命だけは到底相応しいとは思えないとする 》をご存じで、主の方から《 魚を捕る漁師に帰る必要はない、あなたは羊飼い 》と命じられた。もう既に主の生き方にその模範を見ている!! 「子羊、羊」と様々な羊の必要に応えるべく、「わたしの」と、ローマ14章15節 「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人」と覚えての牧会を!!
※ 第一ヨハネ4章19節 「神がまず私たちを愛してくださった」故に、ペテロが生かされ、私たちも、と感謝したいと。
今朝は、ペテロにご自身への愛を確認された直後、「羊を飼いなさい」と命じられた主が、その責務を果たす為の最重要事は、22節 「あなたは、わたしに従いなさい」にあると迫られたおことばに学んで、連講の最後を締め括りたい。
① そもそも、この《 主に従う 》とは?
18、19節 「あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」、「イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである」とあるが、神の栄光の為に、「自らの望むところ」を捨てる生き方のこと。愛が確認されて初めて、この従うという在り方が求められるのである。愛なくして成立しない。
マタイ16章24節 「・・・と思うなら、自分を捨て【詳訳:自分の権利を捨て、自分の利益を無視し、それに目もくれず】、自分の十字架を負って、わたしに従って【詳訳:主に堅くよりすがり、生きるのにも、又必要ならば、死ぬのにも、全面的に主の模範にならい】来なさい」である。
従って、従うという時に求められることとは、主に従わせまいとさせる「自分 ・・・生来の性質をもって生きようとする自我」を憎み、死に至らせる魂の姿勢である。
主はもう既に弟子となっていたペテロたちに言われたのだ。それは主のおことばに単に頷うなずく者が弟子ではなく、主の聖父に従われたその歩みに倣う時にだけ弟子であるからだ。
② あくまでも《 主に従う 》とは?
主との極めて個人的な関係であること。
ペテロは扱われて、初めて知った。
彼は、15~17節で主の愛に「心を痛め」た感動の余韻に浸る間もなく、主への愛が確認されるや、18節 「まことに、まことに、あなたに言います」と、主から改まった口調で将来に起こるとの重大な※19節 「死に方」の予告を受け、直ちに「わたしに従いなさい」と言われた時にである。
ペテロの咄嗟の衝動は、20節 「振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た」、21節 「ペテロは彼を見て、『主よ、この人はどうなのですか』とイエスに言った」。その時、主は、22節 詳訳 「もし、わたしの来る時まで彼を留まらせる【生き延びさせる、いのちを保たせる】ことを望むとしても、それがあなたに何の関係があるのか〈あなたの問題にすべきことなのか〉。あなたは、わたしに従いなさい」と、彼に忠告しなければならなくされた。
ペテロは、主が※18節 詳訳 「わたしは真実を最も真実にあなたに言います」とは 如何にも厳粛な響きをもって、「あなたは若いときには、・・・あなたは両手を・・・あなたに帯をして・・・」と言われるので、“ 私個人への語り掛けである ” とは思ったに違いないが、彼の、20節 「振り向いて・・・来るのを見た」という仕草を見る時、周りにいる弟子たちが気になった様子には痛々しさを感じられないだろうか!!
独りでとした時の不安感? 仮にもしそれが私への予告だとしても、ヨハネはどうなのだろう? との思いが生じた。
弟子たちの互いの間には、優劣を競い合う肉があったが、それでも主は、最後の晩餐の席で、ルカ22章28節 「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです」と、評価された戦友・仲間だった。
特に、ペテロとヨハネとは、ヤコブと共に特別な訓練を授かった間柄。20節 「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」とヨハネが聞いたのも、ペテロの合図によった〈13章24節〉。
互いが互いを必要とする密着した関係にあった間柄。
しかしここで主は、弟子たちが間もなく聖霊によって教会の誕生を見ることになり、世界宣教に向けて誕生した教会の育成に携わるその時を見越して、13章35節 「互いの間に愛があるなら・・・」との聖霊による愛の繋がりが求められるが、それは個々人の主との関係が確立されて初めて健全に保たれるものであると。
換言するなら、「あなたは、わたしに」という主との関係の確立があってのみ、健全な教会建設、夫婦関係、親子関係、あらゆる人間関係の健全性が許されると言われたのだ。
主はヨハネにも、22節 「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても・・・」と、ご計画をお持ちで、彼がどの様な道を歩むことになろうが、ペテロが関与すべきではなく、彼を思うなら、主と彼との関係の確立をのみ。
※ いつでも、「あなたの問題にすべきことなのか。あなたは、わたしに従いなさい」と《 あなたは、わたしに 》との関係をのみ尋ねられるに主に「はい」と応えるお互いでありたい。
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