聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 73


ヨハネの福音書21章15~17節

 先週は、つい先には、エルサレムで復活の主を見て喜び、感動のうちに召命を再確認させられた筈の弟子たちが、3節 「私は漁に行く」と、宣教者としての自覚をよそに、今日をどう生きるかの煩いに身を委ねてしまっている彼らを再度 弟子の召命に復帰すべく、ご顕現下さった記事に学んだ。

ⅰ その場所として、彼らが弟子の召命に与った※1節 「ティベリア【ガリラヤ】湖畔」を選ぶことによって。
 6節 「舟の右側に網を打ちなさい」と勧められ、主であるとは知らずに網を打った弟子たちは大漁を見て、7節 「主だ」と分かって叫んだ!! 正にあの召命の日を想起させた。

ⅱ 3c’、4a節 「その夜は何も捕れなかった。夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた」ことによって。
 主は※5節、弟子たちが自らの窮状をより深刻に感じ始めた時に彼らに臨まれた。未だ、漁に出さえすれば何かしらの糧に恵まれるだろうと期待するも外れ、望みが絶たれた時に。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」の信仰に戻された。

ⅲ 9~13節で、食事に招かれることによって。
 朝明け、ヨハネの「主だ」の感極まった声と、「主だ」と聞いて「湖に飛び込んだ」ペテロの一目散に泳ぐその水しぶきのみが響く静寂な湖畔で、彼らには最早 言葉もなく、主への感慨が心を占めている中、食事に招く主の声が。
 主は※7節 「湖に飛び込んだ」ペテロの即刻の反応こそが彼らの心の象徴だとして、彼らの素顔を信頼しておられた。

※ 主の限りなく無私の愛に信仰を持って飛び込みたいと。


 今朝は、ヨハネから「岸辺に立たれた」お方が「主だ」と聞かされて、7節 「裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込ん」で主の許にやって来たペテロを個人的に、優しくではあるが極めて厳格に扱われた感動的な場面に注目する。

ペテロを扱われた主のそのお扱いはどのようにして?

① 主が、静まり返ったティベリア湖畔の静寂を※15節 「彼らが食事を済ませたとき」に破って《 先ずペテロ、他の弟子たちにではなくペテロに声を掛けられる 》ことによって。

 主の目には、7節で「・・・『主だ』と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ」ペテロが いとおしく映ったに違いないからだ。
 以前ペテロは主の威光に触れた時、ルカ5章8節 「イエスの足もとにひれ伏して・・・『主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。』」と言った。その彼ならばこの今、主の愛に満ちた忠告も余計だとさえして後 主を完全拒絶した今こそ、主の懐に飛び込もうとは決して出来なかったであろうに。ところがこの今、岸辺に立たれる主を目掛けて一目散に泳いで来る彼なのだから。
 主はペテロが《 どんなにか主にお会いしたいと願っていたか!! この日まで何度か復活の主にお会いしたにも拘らず、告白する機会を逸している!! 何としても個人的にお会いして、主を裏切ってしまったあの夜明け前の後悔し切れない痛恨の極みを打ち明けられるものなら打ち明けたいと 》願っているかの全てを知っておられる。

② 主は、15節b 「あなたは、・・・わたしを愛していますか」、16節a 「イエスは再び彼に『・・・あなたはわたしを愛していますか』」、17節a 「イエスは三度目もペテロに、『・・・あなたはわたしを愛していますか』」と《 先ず、ペテロからの声を待たずに、ご自身から愛を確認される 》ことによって。

 主は、ご自身から愛の確認をすべきと判断されたのだ。
 何故なら、ペテロからの言葉を待つ必要がなかったから。
 ペテロのずぶ濡れになりながらも、差し出した魚とパンを黙って食している姿を見るだけで十分だったからだ。
 主のペテロへの信頼は、彼の躊躇ためらわず率直に答えた告白に報われているのを見る。15節d 「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」、16節c 「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」、17節b’ 「ペテロは・・・三度目も・・・言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。』」に、以前の様な勢いは打ち砕かれ、静かではあるが、主への真剣な愛の告白。この告白に、主からの聖声を待たせて頂くことだけが唯一自分に許された、最も相応しい出方だとする《 自らを弁わきまえた謙り 》を見る。
 特に三度目に言われた時、心を痛めたところである。
 言うまでもなく、彼が主を三度否んだことに触れられ、痛みをもって思い起こされる声でもあるが、とことんまでご自身への愛を、あの裏切者の自分に求めてくださる《 過去の全てを不問に付して尚 期待する愛 》への心痛である。

③ 主の方から、15節 「わたしの子羊を飼いなさい」、16節 「わたしの羊を牧しなさい」、17節 「わたしの羊を飼いなさい」と《 ペテロの召命を明確にされる 》ことによって。

 ルカ15章11~24節の物語で、放蕩息子が、18、19節 「・・・もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と決意して帰った時、父は? 21節 「・・・もう、息子と呼ばれる資格はありません」の後の言葉を言わせず、祝宴を準備した。この父の心は、主ご自身!!
 ペテロは、主を愛することだけは間違いないとしても、召命だけは ? と、到底相応しいとは思えなかっただろう。
 主は、自らに絶望したペテロの思いをご存じで、彼には “ 主への献身だけは確かですが、とても「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と派遣していただける身とはなり得ない ” との思いを言わせずに、再度、魚を捕る漁師に帰る必要はない《 羊飼い 》だと。主は羊飼いとは? 10章11節 「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」と、ご自身の生き方に見る。「飼い、牧しなさい」については、詩篇23篇がその解説。「子羊、羊」と、成長過程における様々な必要に応える時、「わたしの」と、主ご自身の血をもって買い取られた群れであるとの自覚を・・・ ローマ14章15節 「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人」との。

※ 第一ヨハネ4章19節 「神がまず私たちを愛してくださった」故に、ペテロが生かされ私たちも今があると感謝したい!!

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