聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 72


ヨハネの福音書21章1~14節

 先週は、復活の主が、マグダラのマリアに次ぎ、19節 「ユダヤ人を恐れて戸に鍵」を掛け、身を潜めていた弟子たちに顕現された時、御口を開かれた第一声が、19d、20、 21、22 、26節 「平安があなたがたにあるように」だったことに学んだ。
 「平安」とは程遠い霊的状態にある彼らが最も必要としていたからでもあるが、そもそも、主のご降誕が「平和の君」としてだったとの再認識の必要。
 ルカ2章13、14節の御使いの讃美に始まり、第二ペテロ3章14節の終末に備えるべき有り様ようだから。地上的レベルをもってでしか生きて来なかった彼ら、復活を期待せずに隠れ家に引きこもる彼らに、天の広大な贖あがないのパノラマに引き出す声掛け。その為に・・・

ⅰ 20節、十字架のご受難の生々しい現実を直視するようにされた。

ⅱ 21~23節、弟子たちをその初めの召命に戻された。あの彼らを宣教者として派遣すると言われた主の信仰に感動!!

ⅲ 27、29節で、トマスに復活の紛れもない証しをされた。
 主は、八日前の※25節のトマスをご存じの上で、27節《 あなたが、そうすることで信じるというのなら、幾らでもしてみなさい 》と許されたとは、主の優しさ!! その優しさは、彼を圧倒させ、罪責感に打ちのめさせ、即座に唯々、28節 「私の主、私の神よ」と、主の聖前に礼拝を捧げさせた。
 但しその優しさは、肉を寄せ付けない厳格な忠告に繋がっているが、伝説では、ペルシア、インド宣教後、マドラスに近い聖トマス山で殉教したとされているのも頷ける。

※ 弟子たちに命じられた「平安」こそが主の求めるところと自覚し、主との正しい関係維持の為、その信仰の確認をと!!


 今朝は、1節 「その後、イエスはティベリア【ガリラヤ】湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された」場面に学ぶ。
 21章のこの出来事は、14節 「三度目」のことで、あの恐怖の町エルサレムを後に、生活基盤の地ガリラヤに戻って来た弟子たちに、主が出会って下さった時のこと。この時点での弟子たちの霊的状態は、極めて危機的状況にあったと見て取れる。それは、3節 「シモン・ペテロが彼らに『私は漁に行く』と言った。すると、彼らは『私たちも一緒に行く』と言っ」ているからだ。
 復活の主に初めてお会いした時※20章20~23節 「イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは再び彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。』・・・」と、感動のうちに召命を再確認させられた筈では? 八日後には、トマスが、主の個人的お扱いに与り、20章28節 「私の主、私の神よ」と主の優しさに圧倒され、礼拝を捧げた筈だったのでは? 明け渡したのでは? 又、その召命とは、ルカ5章10、11節 「『恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。』彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った」と、魚ではなく、魂を救いに導く宣教者として訓練に与っていた筈では?
 ペテロこそ その自覚に立っているべき第一人者では? 又、そのペテロを窘たしなめる者とて一人もなく、即座に同意して、皆で出て行く始末。主の復活の事実は彼らを奮い立たせるどころか、瞬く間に戯言たわごと、まるで夢物語と化している。

 彼らは早、今日をどう生き抜くのかの煩いに身を委ね、主の復活は最早 忘却の彼方に押しやられ、主の弟子として生きることを止めてしまっている。その彼らの霊的実情の象徴的現れは、マリア同様、エマオの途上の弟子たち同様、4節b 「イエスであることが分からなかった」ことに顕著。
 主はこうした弟子たちをご存じの上で、彼らをもう一たび奮い立たせるべく、ご顕現くださったのだ。如何にして?

① 1節 「・・・ティベリア湖畔で再び弟子たちにご自分を現された」ことによって。

 主が弟子たちを復帰させる舞台として、彼らに、主と共に過ごした日々を彷彿させるのに最も適した場所、ガリラヤ湖畔を選ばれた。何という行き届いたご配慮!!
 弟子たちにとっては忘れもしない、ルカ5章1~11節《 別名・ゲネサレ湖で「今から後、あなたは人間を捕るようになる」と召しに与った記念すべき場所 》。
 主はその時の出来事を見事に再現された。彼らは、6節 「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」と勧める方が主とは知らず、そうすることに抵抗なく「そこで」と網を打った時、何と「おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった」程の大漁を見たのだ。11節では「百五十三匹の大きな魚」とある。「それほど多かったのに、網は破れていなかった」とまで。
 7節 「それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに『主だ』と言った」と、ヨハネは瞬時に分かって叫んだ!!
 かつての時との違いは、以前主から「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と言われても、「夜通し働きましたが、何一つ・・・でも・・・」と、仮に網を下ろしたところで・・・と言いたがる経験則による言い訳があったが、ここではその元気もなく無気力。彼らの目は直ちに開かれたのだ。

② 3c'、4a節 「その夜は何も捕れなかった。夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた」ことによって。

 それは、5節 「子どもたちよ、食べる魚がありませんね」と、弟子たちが自らの窮状をより深刻に感じ始めた時、未だ、漁に出さえすれば何かしらの糧にありつけるとの期待を抱いていた時にではない。的を外し、望みが絶たれた時に。
 主を失った彼らは、生きる術も失っていたのだ。彼らには、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」に戻された(マタイ 6・33)。

③ 9~13節 「こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火が・・・。・・・イエスは彼らに言われた。『さあ、朝の食事をしなさい。』・・・」と、食事に招かれることによって。

 朝明けの静まり返った静寂な湖畔に響く物音は、ヨハネの「主だ」の感極まった声と、「主だ」と聞いて「湖に飛び込んだ」ペテロの無我夢中に泳ぐその水しぶきと、彼らを食事に招く主の声だった。彼らは最早 言葉を失い、主の聖前、沈黙による感慨にのみ心を占められたからだ。
 主は彼らの素顔を信頼しておられた。7節 「湖に飛び込んだ」ペテロの即刻の反応こそが彼らの心の象徴だとして。

※ 主の限りなく無私の愛に信仰を持って飛び込みたい。

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