聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 71


ヨハネの福音書20章19~29節

 先週は、主によって予め何度も予告されていた《 主の復活 》だったが、9節、弟子たちに待たれることもなく【皮肉なことには、祭司長たちとパリサイ人たちは、キリストが「三日後によみがえる」と言っていたとして厳重警戒される中】復活は粛々と予告通りに成就された出来事だったと学んだ。
 実にこの復活こそ、主の十字架による代価の目的、厳密には、復活後の聖霊降臨をもたらす力なのだが、何と、弟子たちの霊的無知と怠慢が露骨に曝け出されることになったとは!!
 予告を信じて待ち望まなかった弟子たちに見られた姿は?

ⅰ 言われていた通りだったとはならずに、2、13、15節 「だれかが(墓から)私の主を取って行きました」と、奇抜な空想に。

ⅱ 11節 「マリアは墓の外にたたずんで泣いていた」、13、15節 「なぜ泣いているのですか」と、無意味に流す涙に。

ⅲ 14、15節で、悲しいかな、至近距離で主を見、声を掛けて頂いているにも拘らず、主とは気付かず ひたすらな嘆きに。
 21章4節 「世が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった」も同様。マリアはやっと「マリア」と呼ばれた声で、弟子たちは以前経験した大漁を見て気づいた。

※ 果たして私たちはどうだろうか? 未だにもし、内住の主を頂きながら、彼らに同様ならば自戒すべき!! マタイ17章23節の《 輝かしい復活予告に与りながら悲嘆に暮れた内的実情 》に警戒を。それは「殺される」を口にされる主が気に入らないとする肉【地上的栄誉を求め、主の不名誉な価値観は以ての外とする】が原因と認めて十字架の血に与りたいと。


 今朝は、主が、先ず、マグダラのマリアにご自身を現された後、改めて、その日の※19節 「夕方」と、それからの26節 「八日後」にと、弟子たちを訪ねられて彼らを扱われた記事に注目したい。
 私たちは先週、主の復活を期待して待たなかった弟子たちの姿に、あってはならない失態を見つつ、互いに “ 自分は如何に? ” と自戒したが、実は今朝も、主亡き後の、まさかの弟子たちの無力で惨めな姿を再び見なければならない。
 19節 「ユダヤ人を恐れて戸に鍵」を掛けていたことに。
 ペテロは、ゲツセマネの園で捕縛された主を気にしつつ恐れながらもヨハネに促されて後を追ったものの、いざという時、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」との度重なる声に怖気付いて、「違う」と力を振り絞って言ってしまっていたのだから、その後の弟子たちの様子を象徴する情景である。
 主の亡き後、直ちに エルサレムを離れるにも離れられず、兎に角今は、事の次第を見極めながら、慎重を期して音を立てずに身を潜めているのが得策と考えたからだろう。彼らの恐怖心は、尋常ではなかったことが窺うかがえるが・・・。
 又、主が弟子たちに現れて下さった時、24節 「彼らと一緒にいなかった」トマスが言ったことに。
 それは、25節 詳訳 「他の弟子たちは『私たちは主にお目に掛かった』と言い続けた。しかし彼は言った。『私が主の手に釘跡を見、又私の指を釘跡に入れ、私の手をその脇腹に入れるのでない限りは、私は決してそれを信じない』」と言って、弟子たちからの証言を真っ向から退けたことである。

 その弟子たちに近づかれた主のおことばに注目したい。
 19d、20節 「・・・『平安があなたがたにあるように。』・・・」、21、22節 「平安があなたがたにあるように・・・」、26節 「八日後・・・『平安があなたがたにあるように』」と、復活の主が《 ご自身と再会した弟子たちに掛けられた第一声 》それは他でもなく、「平安があなたがたにあるように」だった。彼らに言うべきおことばは、山ほどお持ちだった筈。しかし一度ならず二度三度と、彼らに平安を願われたおことばだったとは!!
 彼らの今が、主の言われる「平安」とは程遠い霊的状態だったからであり、又最も必要な心の有り様ようだからなのだが、唯単に彼らの現時点での必要だから、に留まらず、今後の彼らにあっては、そもそもの主のご降臨が「平和の君」としてだったことを再認識すべきだったからだ。
 この「平安」は、主のご降誕を告げ知らされた時の、ルカ2章13、14節 「御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。『いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるようにに始まり、第二ペテロ3章14節 詳訳 「・・・これらのものを待ち望んでいるのですから、【彼の来臨の時に】傷もしみもなく、平和のうちにある〈静かな確信のうちにあり、恐怖や荒れ狂う激情や心の葛藤のない〉者として神に見て頂けるように励みなさい」との終末に備えての有り様だからなのだ。
 地上的なレベルにおいてでしか生きて来なかった彼ら、復活を期待もせず敗北者さながら隠れ家に引きこもる彼らに、天の広大な贖 あがないのパノラマに引き出そうとされての声掛け。

その為に・・・

① 20節 「イエスは手と脇腹を彼らに示された」と、最早、彼らにはおことばをもっての説明・説得を用いられずに、唯、十字架でのご受難を提示するだけで良しとされた主。

② 21~23節 「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と、そもそも弟子たちは、何の為に召され、弟子として訓練を受けた三年間だったのか、その初めの召命に戻された主。

 弟子たちは、主の復活後、ますます肉的・世俗的でしかない自らの内的現実を露呈することになったが、主はそれでも彼らを「遣わします」と、成し遂げられた贖いの担い手、宣教者として派遣すると言われた。主の信仰に感動!!

③ 27、29節で、トマスを懇ねんごろに扱われた主。

 主は、八日前の※25節のトマスをご存じの上で、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。即ち《 あなたが、そうすることで信じるというのなら、幾らでもしてみなさい 》と、お許しになられたとは、何という優しさ!! 主のその優しさは、彼を圧倒させ、罪責感に打ちのめさせ、即座に唯々、28節 「私の主、私の神よ」と、主の聖前に礼拝を捧げさせた。
 但しその優しさは、肉を寄せ付けない厳格な忠告に繋がっている。伝説では、ペルシア、インド宣教に携わり、マドラスに近い聖トマス山で殉教を遂げたとされている。

※ 弟子たちに命じられた「平安」こそが主の求めるところと自覚し、主との正しい関係維持の為、その信仰の確認を!!

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