ヨハネの福音書20章1~18節
先週は《 ピラトに主のみ体の下げ降ろしを願い出て、埋葬に関わった 》アリマタヤのヨセフとニコデモの信仰に学んだ。
19章31~34節はユダヤ人が十字架刑に処した罪人を扱った様子であるが、悉く、出エジプト12章1~16節、申命記21章22、23節に定められた律法に従ってのこと。脚を折ることは、死の確認の為、死が確認出来なかった場合、死を確定的にする為で、主は死が確認出来たので折られなかった【36節の成就】。
これら凄まじい光景の後、静かに主のみ体を《 悔いる心を抱きつつ、せめて主のご最期だけでも主への真実を尽くし、心を熱くして 》葬った聖徒二人の信仰とは?
ⅰ 38節に見るアリマタヤのヨセフの信仰。
信仰を公にしなかったが、ルカ23章50、51節《 善良で正しい人、神の国を待ち望んでいた、議員たちの計画や行動には同意していなかった 》彼は、主の死を見た今、負債感をもって主に尽くし、マタイ27章60節《 私有の墓に主を埋葬した ⇒ イザヤ53章9節 》夕拝 NOTEを参照。
ⅱ 39節 「以前、夜イエスのところに来たニコデモ」の信仰。
彼も又「夜」主を訪ねたのは、議員として求道すること、信仰を公的に告白することを恐れていたのだろう。とは言え、7章50~52節、主を擁護する立場を取ってだけは居た。
※ その当時、彼らがエルサレムの議員として信仰を持つこと自体驚くべきこと。それだけに公的にすることは至難事だっただろうが、それで良しとはせずに闘っていたからこそ、この時に至っての彼らの勇気ある行動があった!! お互いも、いつでも明け渡しの信仰で生きる者でありたいと。
今朝は、主のご在世中、予め何度も何度も予告しておられた《 主の復活の成就を見た 》記事である。
私たちはこれまで、如何に主が慎重を期して十字架の日に臨んで来られたか!! 又、十字架上におけるご最期を迎えられ、19章30節 「頭を垂れて霊をお渡しにな」られるまでに払われた《 聖父に呪われて罪の報いである死を完全に引き受けられるという激しい渇き・苦悶 》の代価がどれ程のものであったか!! 及ばずながら感謝の思いを寄せつつ学んで来た。
そして、おぼつかない理解の貧しさに憐れみを頂きながらも 以前よりは より深刻に自らの罪深さを知らされては、主の下さった御苦しみに唯々感謝しつつ、今朝、辿り着かせて頂いたのが、この20章、復活された主にまみえる記事なのだが、私たちはこの光景に何を見るだろうか?
主は復活について、予め何度も何度も予告しておられたのだから、主のそれらのおことばを聞いてきた弟子たちであるならば、どうだろうか? 主が葬られた墓の前で、固唾を呑んで待つべきではなかったのか!!
何と皮肉が!! マタイ27章62~66節を見ると、「祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った」 「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、・・・そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものに・・・」と恐れ、墓前で待機している事実がある!!
確かに主は、マタイ16章21節 「そのときからイエスは、・・・三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた」、17章23節 「『・・・人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。』すると彼らはたいへん悲しんだ」、20章18、19節と更に続き、主の来られる日について※24~25章、最後の晩餐での予告※26章32節 「よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」、ヨハネ2章19~22節 「・・・イエスが・・・よみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた」、11章25~27節 「わたしはよみがえりです・・・」、14章18、19、28節 「・・・『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました」、16章19~22節と、これらで十分なのでは!!
主から直接聞いていたにも拘らず、9節 「イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」弟子たちの惨めな姿を見越して、粛々と成就されたのが復活だったことに留意すべきである。
しかもこの復活こそ、十字架における主の代価の目的であり、否、復活後の聖霊降臨こそ究極目的【ガラテヤ3章13、14節 「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖あがない出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです・・・約束の御霊を受けるようになるため」】なのだが、何という弟子たちの無知、怠慢だった事実が曝け出されたのが悲しいかな《 復活の出来事 》だったとは!!
既に語られていることを信じて待ち望まない姿とは?
① 言われていた通りだったとはならずに、1、13、15節 「だれかが(墓から)私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません」、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください」と、平然ととんでもない奇抜な空想に走る姿。
② 11節 「マリアは墓の外にたたずんで泣いていた」、13、15節 「なぜ泣いているのですか」と、無意味に流す涙に暮れる姿。
③ 14節 「彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。イエスは彼女に言われた。『なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。』彼女は、彼が園の管理人だと思って言った」と、悲しいかな、このような至近距離で主を見、声を掛けて頂いているにも拘らず、主とは気付かず ひたすらな嘆きに陥る姿。
21章4節 「世が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった」も同様。マリアはやっと「マリア」と呼ばれた声で、弟子たちは以前経験した大漁を見て気づいた。
※ 果たして私たちはどうだろうか? 未だにもし、内住の主を頂きながら、彼らに同様ならば自戒すべき!! マタイ17章23節の《 輝かしい復活予告に与りながら悲嘆に暮れた内的実情 》に警戒を。それは「殺される」を口にされる主が気に入らないとする肉【地上的栄誉を求め、主の不名誉な価値観は以ての外とする】が原因と認めて十字架の血に与りたい。
先週は《 ピラトに主のみ体の下げ降ろしを願い出て、埋葬に関わった 》アリマタヤのヨセフとニコデモの信仰に学んだ。
19章31~34節はユダヤ人が十字架刑に処した罪人を扱った様子であるが、悉く、出エジプト12章1~16節、申命記21章22、23節に定められた律法に従ってのこと。脚を折ることは、死の確認の為、死が確認出来なかった場合、死を確定的にする為で、主は死が確認出来たので折られなかった【36節の成就】。
これら凄まじい光景の後、静かに主のみ体を《 悔いる心を抱きつつ、せめて主のご最期だけでも主への真実を尽くし、心を熱くして 》葬った聖徒二人の信仰とは?
ⅰ 38節に見るアリマタヤのヨセフの信仰。
信仰を公にしなかったが、ルカ23章50、51節《 善良で正しい人、神の国を待ち望んでいた、議員たちの計画や行動には同意していなかった 》彼は、主の死を見た今、負債感をもって主に尽くし、マタイ27章60節《 私有の墓に主を埋葬した ⇒ イザヤ53章9節 》夕拝 NOTEを参照。
ⅱ 39節 「以前、夜イエスのところに来たニコデモ」の信仰。
彼も又「夜」主を訪ねたのは、議員として求道すること、信仰を公的に告白することを恐れていたのだろう。とは言え、7章50~52節、主を擁護する立場を取ってだけは居た。
※ その当時、彼らがエルサレムの議員として信仰を持つこと自体驚くべきこと。それだけに公的にすることは至難事だっただろうが、それで良しとはせずに闘っていたからこそ、この時に至っての彼らの勇気ある行動があった!! お互いも、いつでも明け渡しの信仰で生きる者でありたいと。
今朝は、主のご在世中、予め何度も何度も予告しておられた《 主の復活の成就を見た 》記事である。
私たちはこれまで、如何に主が慎重を期して十字架の日に臨んで来られたか!! 又、十字架上におけるご最期を迎えられ、19章30節 「頭を垂れて霊をお渡しにな」られるまでに払われた《 聖父に呪われて罪の報いである死を完全に引き受けられるという激しい渇き・苦悶 》の代価がどれ程のものであったか!! 及ばずながら感謝の思いを寄せつつ学んで来た。
そして、おぼつかない理解の貧しさに憐れみを頂きながらも 以前よりは より深刻に自らの罪深さを知らされては、主の下さった御苦しみに唯々感謝しつつ、今朝、辿り着かせて頂いたのが、この20章、復活された主にまみえる記事なのだが、私たちはこの光景に何を見るだろうか?
主は復活について、予め何度も何度も予告しておられたのだから、主のそれらのおことばを聞いてきた弟子たちであるならば、どうだろうか? 主が葬られた墓の前で、固唾を呑んで待つべきではなかったのか!!
何と皮肉が!! マタイ27章62~66節を見ると、「祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った」 「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、・・・そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものに・・・」と恐れ、墓前で待機している事実がある!!
確かに主は、マタイ16章21節 「そのときからイエスは、・・・三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた」、17章23節 「『・・・人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。』すると彼らはたいへん悲しんだ」、20章18、19節と更に続き、主の来られる日について※24~25章、最後の晩餐での予告※26章32節 「よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」、ヨハネ2章19~22節 「・・・イエスが・・・よみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた」、11章25~27節 「わたしはよみがえりです・・・」、14章18、19、28節 「・・・『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました」、16章19~22節と、これらで十分なのでは!!
主から直接聞いていたにも拘らず、9節 「イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」弟子たちの惨めな姿を見越して、粛々と成就されたのが復活だったことに留意すべきである。
しかもこの復活こそ、十字架における主の代価の目的であり、否、復活後の聖霊降臨こそ究極目的【ガラテヤ3章13、14節 「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖あがない出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです・・・約束の御霊を受けるようになるため」】なのだが、何という弟子たちの無知、怠慢だった事実が曝け出されたのが悲しいかな《 復活の出来事 》だったとは!!
既に語られていることを信じて待ち望まない姿とは?
① 言われていた通りだったとはならずに、1、13、15節 「だれかが(墓から)私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません」、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください」と、平然ととんでもない奇抜な空想に走る姿。
② 11節 「マリアは墓の外にたたずんで泣いていた」、13、15節 「なぜ泣いているのですか」と、無意味に流す涙に暮れる姿。
③ 14節 「彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。イエスは彼女に言われた。『なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。』彼女は、彼が園の管理人だと思って言った」と、悲しいかな、このような至近距離で主を見、声を掛けて頂いているにも拘らず、主とは気付かず ひたすらな嘆きに陥る姿。
21章4節 「世が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった」も同様。マリアはやっと「マリア」と呼ばれた声で、弟子たちは以前経験した大漁を見て気づいた。
※ 果たして私たちはどうだろうか? 未だにもし、内住の主を頂きながら、彼らに同様ならば自戒すべき!! マタイ17章23節の《 輝かしい復活予告に与りながら悲嘆に暮れた内的実情 》に警戒を。それは「殺される」を口にされる主が気に入らないとする肉【地上的栄誉を求め、主の不名誉な価値観は以ての外とする】が原因と認めて十字架の血に与りたい。
この記事へのコメント