聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 69


ヨハネの福音書19章31~42節

 先週記念したペンテコステは、主の※19章28~30節 「完了した」の宣言から《 主の完全な死によっての実現 》と学んだ。

ⅰ 完全な死を、主の※28節 「わたしは渇く」の声に見た。
 これは、既に六時間もの間、流し続けている血が枯れつつある中からの肉体的悲痛な声、霊的激震が走る声。
 神の恵みから完全に断たれたハデスで味わう渇き、地獄の渇き、罪人が味わうべき渇き、神に捨てられた戦慄する恐怖からの渇きの声。この叫びにこそ、紛れもなく完全な呪いを引き受けられ、今正にその恐怖の真っ直中に独り取り残された主からの声。この呪いを受けつつも聖父をとことん信じるか 》が試される中からの渾身の力を振り絞る声。

ⅱ 完全な死を、29、30a節 「・・・兵士たちは・・・イエスの口もとに差し出した。イエスは酸いぶどう酒を受けると」に見た。
 このぶどう酒は、十字架に処刑されるや差し出されても なめただけで飲もうとはされなかった「苦みを混ぜたぶどう酒【麻酔性の物】マタイ27章34節」とは違い、聖父からの呪いを完全に飲み干されたという証として受けられた。

ⅲ 更に※30節a’ b「『完了した』・・・霊をお渡しになった」に見た。
 このおことばこそ、聖父が心を凝らして待っておられた勝利宣言!! 贖あがない主としての任務を全うしたとの勝利宣言。
 イザヤ6章6、7節《 イザヤの霊的経験・神経験 ⇒ 咎の除去、罪の赦し 》にこそ、ペンテコステの聖霊の働きを見る。
 イザヤは、主の血を宛がわれて、彼の最も必要としていた「唇」の清めに与り再派遣を。弟子たちに同様の派遣が。

※ 主の代価を宛がわれる聖霊の働きに感謝したいと。


 今朝は《 主の完全な死による、主の み体の埋葬に関わった 》アリマタヤのヨセフとニコデモの信仰に学びたい。
 31~34節には、ユダヤ人が十字架刑に処した罪人を扱った様子が記されているが、31節 「その日は備え日【金曜日】であり、翌日の安息日【土曜日】は大いなる日であったので」と、出エジプト12章1~16節にその詳細がある。
 出エジプトの出来事を受けて、その日の月をユダヤの元旦と制定し、エジプトを出る14日までに捧げるべきいけにえを準備し、備え日である金曜日に捧げるよう命令されている。
 実に、5~7節は《 神の子羊であるキリストご自身 》の予表であるが、主はこの金曜日に処刑されたのだ。7節 「その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない」、13節 「その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない」と《 十字架の血による贖いの成就がここにある 》。
 この出エジプトした日を「大いなる日」として、14節 「代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない」と定められた。
 そして、この※ヨハネ19章31、32節 「大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。そこで・・・」とは、申命記21章22、23節 「その死体を次の日まで木に残しておいてはならない」への服従。

 実にユダヤ人は、律法には忠実なのだ。
 何故、脚を折る必要があったのか?
(1)死の確認の為。主にあっては※33節 「すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった」と、死が確認出来たからで、二人は確認出来なかった為に折られた。人によっては何十時間も死なずに苦しむことがある。主には長時間苦しまれる必要はなかった。聖父が良しと認められて受け入れられたからだ。34節は確認の駄目押しの為ではあるが、36節の成就であり、37節は死の確実性の必然性【復活】の意。
(2)仮に死んでいなかった場合、死を確定的なものとする為。
 これらの光景は、何と凄まじいことか!!
 ユダヤ人と兵士たちとが、主の死の意味も分からず、どなたを死に至らせたかとのその恐るべき反逆・罪過の意味も分からず、主を目の敵にする罪人の肉の何と・・・醜い光景である!!
 何の為? 唯単に、宗教家たちと彼らに利己的に加担するユダヤ人は、主への嫉妬、偏り、然りは然り、否は否とする主の神への忠実さを憎悪・嫌悪する極めて利己的で根拠のない理由の為に。裁判官ピラトは、ローマ帝国における自らの立場を死に物狂いで守りたいが為に!!
 しかし今朝は、これら《 主の死を見届けないでは油断出来ないとして力の限り、目の前から主を葬り去ろうと躍起になる騒々しい 》人々が居る中、彼らとは対照的に、主のみ体を《 静かに悔いる心を抱きつつ、せめて主のご最期の葬りだけには主への真実を尽くしたいと申し出て埋葬した 》二人の隠れてはいたが、心を熱くしていた聖徒に思いを寄せたい。
 主のみ体を葬った二人の信仰にである!!

① 38節 「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフ」の信仰。

 信仰を公に出来なかった弱さを抱えつつも、ルカ23章50、51節《 善良で正しい、神の国を待ち望んでいた、議員たちの計画や行動には同意していなかった 》とあることから、主の弟子として懸命に生きていた様子が窺える。
 しかし主の死を見た今、その彼の「イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た」勇気は、彼が如何に自らの自己保身を罪と認めて悔いたことか、彼の内に主への信仰が燃えていたかの証である。マタイ27章60節《 私有の墓に主を埋葬した ⇒ イザヤ53章9節 リビングバイブル訳 「彼は罪人の扱いを受け、富む者の墓に葬られました」にその預言が 》。

② 39節 「以前、夜イエスのところに来たニコデモ」の信仰。

 彼も又「夜」主を訪ねたのは、議員として信仰を公的に告白することを恐れていたのだろう。とは言え、7章50~52節 「・・・『私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか』」と、主を擁護する立場を取っては居た。

※ その当時、エルサレムの議員として信仰を持つこと自体驚くべきこと。それだけに公的にすることは至難事だっただろう。しかしそれで良しとはせずに闘っていたからこそ、この時の彼らの勇気ある行動があった!! お互いも、いつでも明け渡しの信仰で生きる者でありたい。

この記事へのコメント