ヨハネの福音書19章28~30節
先週は、ゴルゴダの丘で、野獣と化した人々からの激しい荒れ狂う嵐が吹き付ける最中、主を信頼する《 25、26節のほんの一握りの小さな群れを見い出された主 》を凝視した。
ⅰ 25節に見る《 人々には人間的に重んじられることのない、蔑まれた所 》にこそ、最大の関心を寄せられる主。
人間的強さとは程遠い人々。何故? 詩篇22篇6節 「私は虫けら・・・人間ではありません」と、人としての尊厳すら認められず蔑みの中に置かれた主は、貧しさの自覚にある者への聖父の御思いを知り、人目に留まる評価にではなく、聖父に認められる事をもって幸いと知る所に目を留められた主。ここには、13章37節で主への愛を誓ったペテロの姿はなく、26節、13章23節、「主が愛しておられた弟子」と言い切ったヨハネ【第一ヨハネ4章19節】と女性たちのみが。
ⅱ 26節で《 母マリアを思い遣られる 》主。
人の母としての厳しさ「剣が突き刺す」痛みを味わっているマリア、御子を育てるという重大な責務を果たして神に仕えた母への感謝を忘れずに敬意を払い、生涯の最期を見届けてもらいたいと、ヨハネに託された優しさは偉大!!
ⅲ 27節で《 ヨハネを信任される 》主。
主の後に父ヨセフとの間で生まれた兄弟姉妹【主の亡き後、信仰に導かれている】にではなく、弟子ヨハネに母を託された賢明さ。ヨハネを信任して《 母の最期を委ゆだねられた 》。
ヨハネが、27節 詳訳 「・・・その時からマリアを扶養家族として自分の家に引き取った」とは、彼の忠実さの証である。
※ ご受難の主の目に留まった群れの中の一人でありたいと。
今朝は、主の復活後の50日目、肉のままの弟子たちに注がれた聖霊により、彼らを通して主から託された福音宣教の開始を見ることになった記念日、或いは、聖霊に満たされたペテロの説教で回心した三千人の人々が起こされて教会の誕生を見た日を記念する《 ペンテコステ礼拝 》の朝を迎えた。
使徒2章14~36節【預言者ヨエルはB.C.800年頃、ダビデはB.C.1000年頃】は、この日が預言の成就だったことと、その実現が、22~24節 「神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって・・・。神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死に・・・」とある《 主の復活 》によって成就したこととを伝えている。
そこでペンテコステを記念する朝、私たちが最も確認しなければならないことは、この「この方が死につながれていることなど、あり得なかった ⇒ 本来ならば死は主に相応しいものではない【死は罪に対する報いだから】」、唯罪人の身代わりの死に過ぎなかったが《 完全な死を味わわれた 》との証。
この事実の確かさを目撃することこそが、ペンテコステを記念する朝を迎えるに相応しい。
その確認に最も適している箇所が、今朝、連講で辿り着かせて頂いた箇所であることに感謝したい。
使徒ヨハネが目撃した、19章28~30節 「・・・イエスは・・・『完了した』・・・そして・・・霊をお渡しになった」にである。
① 28節 「わたしは渇く」。
私たちは主の苦悩の中から発せられたこの呟つぶやきをどの様に理解するだろうか? もう既に、六時間が経過し、釘が打ち込まれた傷口から流れ続けていた血は枯れ始め、肉体から聞こえて来る、弱々しくはあるが悲鳴なのだ。
こうした肉体的厳しさよりも更に悲痛な声として見ておかなければならない、霊的激震が走る声を。
あの紫の衣で身を包み、門前にいたラザロを顧みなかった金持ちの死後、ハデスの燃える炎の中から「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。ルカ16章24節」と叫んだ悲痛な声に同様の声なのだ。即ち、神の恵みという恵みから完全に断たれたハデスで味わう渇き、地獄の渇き、罪人が自らの報いとして味わう渇き、神に捨てられた戦慄する恐怖からの渇きの声。
正にこの叫びは、マタイ27章46節 「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』・・・」の状態を御身で味わった時のお声。主は完全に聖父に捨てられた!! 人類の身代わりの死を受けるべきと覚悟して臨まれたのではあるが、主には想像を絶する呪い、罪が受けるべき報いの悲惨な現実を知って驚愕されたのだ。
この叫びにこそ、紛れもなく完全な呪いを引き受けられ、今正にその恐怖の真っ直中に独り取り残された主からの声。
主に残された たった一つの事《 この呪いを受けつつも、聖父をとことん信じる信仰があるか 》が試される中からの声。
② 29、30a節 「・・・兵士たちは・・・イエスの口もとに差し出した。イエスは酸いぶどう酒を受けると・・・」。
この「酸いぶどう酒」は、十字架に処刑されるや差し出された時、なめただけで飲もうとはされなかった「苦みを混ぜたぶどう酒【麻酔性の物】マタイ27章34節」とは違う。その麻酔薬は、兵士の好意とは言え、その背後のサタンの策略を意識されて拒否。「酸いぶどう酒」については聖父からの呪いを完全に飲み干されたという証として受けられた。
③ 30節a' b 「『完了した』・・・頭を垂れて霊をお渡しになった」。
このおことばこそ、聖父が心を凝らして待っておられた勝利宣言、贖あがない主としての任務を全うしたとの勝利宣言。
イザヤ6章6、7節 「すると・・・。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。『・・・唇に触れたので・・・』」とある《 イザヤの霊的経験・神経験 ⇒ 咎の除去、罪過の赦し 》にこそ、ペンテコステの聖霊の働きを見る。この「燃えさかる炭」は、「世の罪を取り除く神の子羊」の主が《 全き供え物として神に受け入れられた証として燃焼された 》の意。
イザヤは主の血を宛がわれ、彼の最も必要としていた「唇」の清めに与り再派遣を。弟子たちも 主の血を宛がわれる聖霊の肉の清めに与って宣教者として派遣を。
※ 今の最重要事は肉の除去!! その為に完全な死を遂げて下さった主の代価を宛がわれる聖霊の備えに感謝したい。
先週は、ゴルゴダの丘で、野獣と化した人々からの激しい荒れ狂う嵐が吹き付ける最中、主を信頼する《 25、26節のほんの一握りの小さな群れを見い出された主 》を凝視した。
ⅰ 25節に見る《 人々には人間的に重んじられることのない、蔑まれた所 》にこそ、最大の関心を寄せられる主。
人間的強さとは程遠い人々。何故? 詩篇22篇6節 「私は虫けら・・・人間ではありません」と、人としての尊厳すら認められず蔑みの中に置かれた主は、貧しさの自覚にある者への聖父の御思いを知り、人目に留まる評価にではなく、聖父に認められる事をもって幸いと知る所に目を留められた主。ここには、13章37節で主への愛を誓ったペテロの姿はなく、26節、13章23節、「主が愛しておられた弟子」と言い切ったヨハネ【第一ヨハネ4章19節】と女性たちのみが。
ⅱ 26節で《 母マリアを思い遣られる 》主。
人の母としての厳しさ「剣が突き刺す」痛みを味わっているマリア、御子を育てるという重大な責務を果たして神に仕えた母への感謝を忘れずに敬意を払い、生涯の最期を見届けてもらいたいと、ヨハネに託された優しさは偉大!!
ⅲ 27節で《 ヨハネを信任される 》主。
主の後に父ヨセフとの間で生まれた兄弟姉妹【主の亡き後、信仰に導かれている】にではなく、弟子ヨハネに母を託された賢明さ。ヨハネを信任して《 母の最期を委ゆだねられた 》。
ヨハネが、27節 詳訳 「・・・その時からマリアを扶養家族として自分の家に引き取った」とは、彼の忠実さの証である。
※ ご受難の主の目に留まった群れの中の一人でありたいと。
今朝は、主の復活後の50日目、肉のままの弟子たちに注がれた聖霊により、彼らを通して主から託された福音宣教の開始を見ることになった記念日、或いは、聖霊に満たされたペテロの説教で回心した三千人の人々が起こされて教会の誕生を見た日を記念する《 ペンテコステ礼拝 》の朝を迎えた。
使徒2章14~36節【預言者ヨエルはB.C.800年頃、ダビデはB.C.1000年頃】は、この日が預言の成就だったことと、その実現が、22~24節 「神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって・・・。神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死に・・・」とある《 主の復活 》によって成就したこととを伝えている。
そこでペンテコステを記念する朝、私たちが最も確認しなければならないことは、この「この方が死につながれていることなど、あり得なかった ⇒ 本来ならば死は主に相応しいものではない【死は罪に対する報いだから】」、唯罪人の身代わりの死に過ぎなかったが《 完全な死を味わわれた 》との証。
この事実の確かさを目撃することこそが、ペンテコステを記念する朝を迎えるに相応しい。
その確認に最も適している箇所が、今朝、連講で辿り着かせて頂いた箇所であることに感謝したい。
使徒ヨハネが目撃した、19章28~30節 「・・・イエスは・・・『完了した』・・・そして・・・霊をお渡しになった」にである。
① 28節 「わたしは渇く」。
私たちは主の苦悩の中から発せられたこの呟つぶやきをどの様に理解するだろうか? もう既に、六時間が経過し、釘が打ち込まれた傷口から流れ続けていた血は枯れ始め、肉体から聞こえて来る、弱々しくはあるが悲鳴なのだ。
こうした肉体的厳しさよりも更に悲痛な声として見ておかなければならない、霊的激震が走る声を。
あの紫の衣で身を包み、門前にいたラザロを顧みなかった金持ちの死後、ハデスの燃える炎の中から「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。ルカ16章24節」と叫んだ悲痛な声に同様の声なのだ。即ち、神の恵みという恵みから完全に断たれたハデスで味わう渇き、地獄の渇き、罪人が自らの報いとして味わう渇き、神に捨てられた戦慄する恐怖からの渇きの声。
正にこの叫びは、マタイ27章46節 「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』・・・」の状態を御身で味わった時のお声。主は完全に聖父に捨てられた!! 人類の身代わりの死を受けるべきと覚悟して臨まれたのではあるが、主には想像を絶する呪い、罪が受けるべき報いの悲惨な現実を知って驚愕されたのだ。
この叫びにこそ、紛れもなく完全な呪いを引き受けられ、今正にその恐怖の真っ直中に独り取り残された主からの声。
主に残された たった一つの事《 この呪いを受けつつも、聖父をとことん信じる信仰があるか 》が試される中からの声。
② 29、30a節 「・・・兵士たちは・・・イエスの口もとに差し出した。イエスは酸いぶどう酒を受けると・・・」。
この「酸いぶどう酒」は、十字架に処刑されるや差し出された時、なめただけで飲もうとはされなかった「苦みを混ぜたぶどう酒【麻酔性の物】マタイ27章34節」とは違う。その麻酔薬は、兵士の好意とは言え、その背後のサタンの策略を意識されて拒否。「酸いぶどう酒」については聖父からの呪いを完全に飲み干されたという証として受けられた。
③ 30節a' b 「『完了した』・・・頭を垂れて霊をお渡しになった」。
このおことばこそ、聖父が心を凝らして待っておられた勝利宣言、贖あがない主としての任務を全うしたとの勝利宣言。
イザヤ6章6、7節 「すると・・・。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。『・・・唇に触れたので・・・』」とある《 イザヤの霊的経験・神経験 ⇒ 咎の除去、罪過の赦し 》にこそ、ペンテコステの聖霊の働きを見る。この「燃えさかる炭」は、「世の罪を取り除く神の子羊」の主が《 全き供え物として神に受け入れられた証として燃焼された 》の意。
イザヤは主の血を宛がわれ、彼の最も必要としていた「唇」の清めに与り再派遣を。弟子たちも 主の血を宛がわれる聖霊の肉の清めに与って宣教者として派遣を。
※ 今の最重要事は肉の除去!! その為に完全な死を遂げて下さった主の代価を宛がわれる聖霊の備えに感謝したい。
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