ヨハネの福音書19章23~27節
先週は、ピラトからユダヤ人の手に引き渡された主が、遂に、17、18節ゴルゴダで処刑された場面に思いを馳せた。
距離にして360m。死刑囚は自分たちの死刑の道具を処刑場まで運ばされた。ゴルゴダに向う城内の扉が開かれるや、主と死刑囚二人を一目見ようと群がる雑多な人々からの残酷極まりない罵声が飛び交う中《 放たれた主の輝き 》に注目。
ⅰ クレネのシモンにもたらした祝福に。
マルコ15章21節には、その途中十字架を担い切れなかった主の肩から取り上げられた十字架を無理やり【嫌がって抵抗したが】背負わされ シモンが登場。「彼はアレクサンドロとルフォスの父で」とあり、ローマ16章13節に「主にあって選ばれた人ルフォスに・・・また彼と私の母によろしく」と、シモンの家族は救いに与り、使徒パウロから「私の母」と呼ばれ、献身的に宣教に携わったと考えられる。
シモンは、主をそれこそ至近距離で直接見、御声を聞き、処刑を目撃し、十字架上の七言を聞いて立ち返っただろう。
ⅱ ルカ23章27、28節で《 ご自身の為に泣く同情を過ちだと告げ、それを禁じられた厳格さ 》に。
仮に人の目に映る主が如何に悲劇的に見えようが、主への感傷的同情でしかない涙なら主は退けられる。むしろ自らの神への反逆を悔いて「泣きなさい」とのお声!!
ⅲ ピラトに、22節 「そのままに」と言わせた主の権威に。
主の※18章36節、「わたしの国はこの世のものではない」と言われた証言の事実が支持されることになった。
※ へブル13章12、13節 「ですから私たちは」に従いたいと。
今朝は、十字架に処刑された主の足元で、主の み体から※23節 「衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした」兵士たちの笑い声と主への怒号、罵声、嘲笑とが飛び交う不気味な冷酷な状況で、ご受難の主のお心に一際目立った存在として留められた《 一つの小さな群れと主 》に注目したい。
兵士たちのした行為は、詩篇22篇1節 「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」に始まる、ダビデを通してのご受難の主が預言されている通りの叫びである。4~6節 「あなたに 私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼し あなたは彼らを助け出されました。・・・あなたに信頼し 彼らは恥を見ませんでした。しかし 私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的 民の蔑みの的です」、更に、18節 「彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします」とあり、正に人の子 主のお心の内からの叫び。
人々が、7節 「私を見る者はみな 私を嘲ります。口をとがらせ 頭を振ります」とは、その場の情景を説明している。
主を処刑したことで勝ち誇った祭司長、律法学者の口からは何と!! おぞましい、憎しみが込められた言葉が投げつけられていることか。野獣さながら、十字架上の主に向かって狂わんばかりに吠え猛っている姿と化した宗教家たちの絶叫。
ところがそこに、主の優しい眼差しが《 彼らとは極めて対照的な一つの小さな群れ 》に注がれたのだ。
ゴルゴダの丘で、彼ら野獣と化した人々の激しい荒れ狂う嵐が吹き付ける最中、主の目は、ご自身を信頼する《 ほんの一握りの小さな群れの 》存在に留められたのだ。その小さな群れとは、25節 「イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた」 女性たちと、26節 「母とそばに立っている愛する弟子」 ヨハネとである。
この《 小さな群れに注がれた主 》を凝視したい。
① 25節に見る《 人々には人間的価値ありとは見做されない所 》にこそ、最大の関心を寄せられる主。
人間的強さなどとは程遠い、微塵も見受けられない人々。何故なら、詩篇22篇6節 「私は虫けらです 人間ではありません」とあるのは、主は人の子となられたのではあるが、人としての尊厳すら認められない蔑みの中に置かれたことの告白。そうであられるからこそ、卑しさを知るお方として、その自覚の在る所にこそ目が留められるからだ。
ここには、13章37節 「あなたのためなら、いのちも捨てます」と勢いよく主への愛を誓ったペテロの姿はなく、自らを唯※26節 「愛する弟子」、13章23節、「主が愛しておられた弟子」と言い切ったヨハネが。彼は主を愛すると言わず、主に愛されて初めて生きる者との自覚にあった【第一ヨハネ4章19節】。又、他の弟子たちは主を残して散り散り去ったが、ここには、ルカ2章35節 「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことに」と予告されていた母マリア、その母を支えるヨハネと共に居合わせる女性たちの姿のみ。
やはりここでも、第二コリント12章9節の聖句こそが、主の目に特別に価値ある在り方であると覚えさせられる。
② 26節で《 母マリアを思い遣られる 》主。
母マリアは、誰よりも最も厳しいお扱いにあるが、30数年前の受胎告知で「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と自らを差し出した器故、身を明け渡し委ゆだねている筈。とは言え、人の母としての厳しさ「剣が突き刺す」痛みを味わっている。
ご奉仕の最中、母として我が子の気が狂っているとの噂を心配して訪ねて来た時、「わたしの母とはだれか」とつれない扱いとも見受けられる場面があったが、主が肉親であれ、神にある家族との意識でお過ごしだったからなのだ。
しかし御子を育てるという重大な責務を果たし 神に仕えた母への感謝を忘れずに敬意を払い、生涯の最期を確かに見届ける為にとヨハネに託された優しさは偉大!!
③ 27節で《 ヨハネを信任される 》主。
主の後に父ヨセフとの間で生まれた兄弟姉妹にではなく、弟子ヨハネに母を託された賢明さ。彼らは、7章5節 「兄弟たちもイエスを信じていなかった」が、主の亡き後、ヤコブの手紙、ユダの手紙の記者として出て来ることから信仰に導かれていることだけは確か。しかし主は、その彼らにではなく、ヨハネを信任して《 母の最期を委ねられた 》。
ヨハネが、27節 詳訳 「・・・その時からマリアを扶養家族として自分の家に引き取った」とは、彼の忠実さの証である。
※ ご受難の主の目に留められる存在でありたい。
先週は、ピラトからユダヤ人の手に引き渡された主が、遂に、17、18節ゴルゴダで処刑された場面に思いを馳せた。
距離にして360m。死刑囚は自分たちの死刑の道具を処刑場まで運ばされた。ゴルゴダに向う城内の扉が開かれるや、主と死刑囚二人を一目見ようと群がる雑多な人々からの残酷極まりない罵声が飛び交う中《 放たれた主の輝き 》に注目。
ⅰ クレネのシモンにもたらした祝福に。
マルコ15章21節には、その途中十字架を担い切れなかった主の肩から取り上げられた十字架を無理やり【嫌がって抵抗したが】背負わされ シモンが登場。「彼はアレクサンドロとルフォスの父で」とあり、ローマ16章13節に「主にあって選ばれた人ルフォスに・・・また彼と私の母によろしく」と、シモンの家族は救いに与り、使徒パウロから「私の母」と呼ばれ、献身的に宣教に携わったと考えられる。
シモンは、主をそれこそ至近距離で直接見、御声を聞き、処刑を目撃し、十字架上の七言を聞いて立ち返っただろう。
ⅱ ルカ23章27、28節で《 ご自身の為に泣く同情を過ちだと告げ、それを禁じられた厳格さ 》に。
仮に人の目に映る主が如何に悲劇的に見えようが、主への感傷的同情でしかない涙なら主は退けられる。むしろ自らの神への反逆を悔いて「泣きなさい」とのお声!!
ⅲ ピラトに、22節 「そのままに」と言わせた主の権威に。
主の※18章36節、「わたしの国はこの世のものではない」と言われた証言の事実が支持されることになった。
※ へブル13章12、13節 「ですから私たちは」に従いたいと。
今朝は、十字架に処刑された主の足元で、主の み体から※23節 「衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした」兵士たちの笑い声と主への怒号、罵声、嘲笑とが飛び交う不気味な冷酷な状況で、ご受難の主のお心に一際目立った存在として留められた《 一つの小さな群れと主 》に注目したい。
兵士たちのした行為は、詩篇22篇1節 「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」に始まる、ダビデを通してのご受難の主が預言されている通りの叫びである。4~6節 「あなたに 私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼し あなたは彼らを助け出されました。・・・あなたに信頼し 彼らは恥を見ませんでした。しかし 私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的 民の蔑みの的です」、更に、18節 「彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします」とあり、正に人の子 主のお心の内からの叫び。
人々が、7節 「私を見る者はみな 私を嘲ります。口をとがらせ 頭を振ります」とは、その場の情景を説明している。
主を処刑したことで勝ち誇った祭司長、律法学者の口からは何と!! おぞましい、憎しみが込められた言葉が投げつけられていることか。野獣さながら、十字架上の主に向かって狂わんばかりに吠え猛っている姿と化した宗教家たちの絶叫。
ところがそこに、主の優しい眼差しが《 彼らとは極めて対照的な一つの小さな群れ 》に注がれたのだ。
ゴルゴダの丘で、彼ら野獣と化した人々の激しい荒れ狂う嵐が吹き付ける最中、主の目は、ご自身を信頼する《 ほんの一握りの小さな群れの 》存在に留められたのだ。その小さな群れとは、25節 「イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた」 女性たちと、26節 「母とそばに立っている愛する弟子」 ヨハネとである。
この《 小さな群れに注がれた主 》を凝視したい。
① 25節に見る《 人々には人間的価値ありとは見做されない所 》にこそ、最大の関心を寄せられる主。
人間的強さなどとは程遠い、微塵も見受けられない人々。何故なら、詩篇22篇6節 「私は虫けらです 人間ではありません」とあるのは、主は人の子となられたのではあるが、人としての尊厳すら認められない蔑みの中に置かれたことの告白。そうであられるからこそ、卑しさを知るお方として、その自覚の在る所にこそ目が留められるからだ。
ここには、13章37節 「あなたのためなら、いのちも捨てます」と勢いよく主への愛を誓ったペテロの姿はなく、自らを唯※26節 「愛する弟子」、13章23節、「主が愛しておられた弟子」と言い切ったヨハネが。彼は主を愛すると言わず、主に愛されて初めて生きる者との自覚にあった【第一ヨハネ4章19節】。又、他の弟子たちは主を残して散り散り去ったが、ここには、ルカ2章35節 「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことに」と予告されていた母マリア、その母を支えるヨハネと共に居合わせる女性たちの姿のみ。
やはりここでも、第二コリント12章9節の聖句こそが、主の目に特別に価値ある在り方であると覚えさせられる。
② 26節で《 母マリアを思い遣られる 》主。
母マリアは、誰よりも最も厳しいお扱いにあるが、30数年前の受胎告知で「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と自らを差し出した器故、身を明け渡し委ゆだねている筈。とは言え、人の母としての厳しさ「剣が突き刺す」痛みを味わっている。
ご奉仕の最中、母として我が子の気が狂っているとの噂を心配して訪ねて来た時、「わたしの母とはだれか」とつれない扱いとも見受けられる場面があったが、主が肉親であれ、神にある家族との意識でお過ごしだったからなのだ。
しかし御子を育てるという重大な責務を果たし 神に仕えた母への感謝を忘れずに敬意を払い、生涯の最期を確かに見届ける為にとヨハネに託された優しさは偉大!!
③ 27節で《 ヨハネを信任される 》主。
主の後に父ヨセフとの間で生まれた兄弟姉妹にではなく、弟子ヨハネに母を託された賢明さ。彼らは、7章5節 「兄弟たちもイエスを信じていなかった」が、主の亡き後、ヤコブの手紙、ユダの手紙の記者として出て来ることから信仰に導かれていることだけは確か。しかし主は、その彼らにではなく、ヨハネを信任して《 母の最期を委ねられた 》。
ヨハネが、27節 詳訳 「・・・その時からマリアを扶養家族として自分の家に引き取った」とは、彼の忠実さの証である。
※ ご受難の主の目に留められる存在でありたい。
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