聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 65


ヨハネの福音書19章1~16節

 先週は、ピラトが目の前に迎えた主を見て※38節 「あの人に何の罪も認めない」と言いつつも、ユダヤ人を恐れて怖気づき、主の威厳に満ちたお姿によって苦悩していくのを見た。

ⅰ 威厳に満ちた主:
 主はピラトからの※33節 「ユダヤ人の王なのか」との質問に※34節と逆質問し、ピラトを※35節と反撃させ、苛立ちを露わにさせている。更に、ユダヤ人から告訴されている主は、何ら無罪の判決を懇願せずに、ここでも逆にピラトに尋問の経緯を尋ねることで面喰わせている。主は死を決意しておられるからだ。むしろ※38節c 「私はあの人に何の罪も認めない」とするピラトと知って彼の人間的弱さを危惧され、その窮地に追い込まれている彼を救おうとされる。
 主のその魂に対する情熱を、36~38節でピラトと交わされたやり取りと、遂に「真理とは何なのか」と言わせたことに見る。ピラトは、主のおことばに【彼自身にとっては不本意だったと思われるが】引き寄せられていく。ところが・・・

ⅱ 哀れなピラト:
 ピラトの惨めさは、彼が主を見るに※38節c 「何の罪も認めない」としつつも、裁判執行の最高責任者【19章10節】との主張も空しく、正義に従って判決が下せない点にある。彼は無罪の主の釈放を願って※39節の奥の手を差し出すも、ユダヤ人からの※40節 「バラバを」との狂わんばかりの絶叫に、主を釈放しようものなら危ういとして身震いした。

※ 為すべきと知りつつユダヤ人を恐れて妥協を講じ始めたその時から堕落が始まると覚え、瞬時の選択に注意を、と!!


 今朝は、遂に、16節 「ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した」という《 ピラトにとって最も悲劇的な恐るべき場面 》に注目しなければならない。引き渡された主にとってではなく、ピラトにとって最も悲劇となった場面にである。何故なら、先々回の言及の如く、裁かれたのは主ではなく、ピラトだったからだ。
 ピラトが裁かれることになったというのは、主の聖前で、自らの惨めな罪を暴かれることになったからだ。
 罪とは何かを、厳格に考えさせられる出来事である。
 ピラトは、主と至近距離で救いの道の説き明かしに与り、その初めは、面倒な事を突き付けられたと言わんばかりの態度で主を迎えたが、関わりから逃れられなくされてからというもの、彼は止む無く口を利く羽目に追い込まれながら、知らず知らずのうちに主に引き込まれていくことに。
 遂に、38節 「真理とは何なのか」、「私はあの人に何の罪も認めない」とまで言うようになり、重ねて、19章4節c 「私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう」、6節d 「私にはこの人に罪を見出せない」と。
 罪とは、このピラトの卑怯な優柔不断さにその典型を見る。
 ローマ1章18~23節 「・・・彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました」とある。正に彼の悲劇はここにある。

 1節 「それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った」とある、「それで」とは? 18章40節 「すると、彼らは再び大声をあげて、『その人ではなく、バラバを』」とユダヤ人の狂わんばかりの絶叫・怒号に身震いし、最早戸惑う時間すら もぎ取られて、完全に彼らに屈服したピラトの様子。
 ピラトが主を「むちで打った」ことには、彼の内心がどんなにかかき乱され、自己矛盾に怯えているかの現れを見る。
 ピラトが不義に舵を切ったこの瞬間から、彼は見る見るうちに、不本意ながら霊的破滅の坂を下って行くことになる。
 ピラトの悲劇は、彼の手で辱められながらも毅然とした態度で対応される主によって、いよいよその深刻さが増す。
 主とのコントラストによって、浮き彫りにされていくピラトの悲劇を見ながら、主の聖前でお互いの姿勢を見直したい。

① ピラトの前の主:

 むち打たれて後、2、3節で《 茨の冠、紫色の衣に身を包み、ユダヤ人の王様万歳と言われて平手打ちされる主 》は、実に、茶番劇の主人公とされて からかわれている。
 ピラトが、4節 「・・・そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう」と言って主を連れだした時、5節 「見よ、この人だ」と言われるや、6、15 節 「十字架につけろ」と、祭司長たちと下役たちからの罵声を浴びせ掛けられるがままの主。
 ピラトが恐怖心に身を震わせ、苛立ちを露わに言った※9節a’ 「あなたは・・・」との質問には、9節b’ 「何も」と冷静に。
 10節で苦し紛れに、権威を振りかざすピラトに、11節で、彼の無知を窘たしなめた上でユダに言及。恐らく、彼をユダの悲劇に重ね、同様の痛みを抱かれつつ、最後のチャンスをこのピラトにとの切実な思いを傾けられた主を見る。

② 主の聖前のピラト:

 必死に、4、6節 「何の罪も見出せない・・・」とは言いつつも、主を無罪だ!! との判決を下せないピラト。12節 「イエスを釈放しようと努力した」のは確かだ。
 しかし裁判官として権威ある判決を下せずに唯、8節 詳訳 「前よりももっと驚いた〈畏怖─威圧され、恐れ慄おののいた〉」。それは、自らの恐れる内的問題に主を求めずに、自分以外の所に助けを求め、藁にでもすがろうともがいたからだ。
 即ち、6節c 「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ」とはユダヤ人への懇願であり、判決が下せないのは、あなたのせいだと言わんばかりに、10節 「私に話さないのか」と要求する自己逃避にある。恐れの解消は、自分以外の何処かに助けを求めている限りあり得ない。如何に「釈放しようと努力した」としても、自らの恐れの出所である自己愛にメスを入れられない限り、実を結ぶ筈がない。
 遂に彼は、12節c 「カエサルの友ではありません」、15節c 「カエサルのほかには、私たちに王はありません」とのユダヤ人の狂わんばかりの絶叫に屈服し、遂に、16節 「イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した」のだ!!

※ 「主イエスよ我を全くし」と祈り、主の血潮に与りたい。

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