聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 64


ヨハネの福音書18章33~40節

 先週は、主が※18章28節 カヤパから総督ピラトに連行され、19章16節a 十字架への引渡しまでの初めに注目した。
 三段階で行われたユダヤ人による全ての尋問を終え、ローマによる裁き、総督官邸に移されることになる場面である。
 ローマの尋問も又、三段階あった【先ずピラト ⇒ ヘロデ⇒ 再度ピラトで】と。記者ヨハネはピラトの前での尋問にだけ割いた。
 いみじくも、聖書学者テニイから “ ピラトの前でキリストが審問を受けているのではなく、キリストの前でピラトが審問を受けている ” と学んだが、ピラトは実は、主とは至近距離での会話により、救いのチャンスに恵まれた人物なのだと。 
 19章16節までの裁きの座で、ピラトの揺れ動く心の動きに触れることになるが、先ずその初めの部分から三点を。

ⅰ 28節《 祭司長、長老たち及びユダヤ人たち 》の偽善。
 確かに彼らの律法によってピラトが異邦人であった為、汚されまいとしたが、一体彼らにとって神を恐れるとは?
 汚れは、今正に主を死刑に定めた(マタイ27章1節)内的腐敗にあるのであって、「官邸の中に入る」ことにはない。

ⅱ 31節《 責任逃れを図るピラト 》の卑怯。
 ピラトは、ユダヤ人の主張【31節c】通り、死刑執行の権限を剥奪されている彼らと知りながら突き返す無責任さには、関わることへの個人的弊害を恐れて逃避する魂胆が。

ⅲ 32節《 神の圧倒的権威 》。
 ユダヤ人の石打ち刑によってではなく、十字架刑によるとの預言成就は、ローマ政府の抑圧あってのことだったここに神の権威の現在を見る。

※ いよいよ主を畏れることにのみ幸いがあるとの信仰をと。


 今朝は、ピラトが目の前に迎えた主を見て、これまで扱って来なければならなかった犯罪者とは全く違う人物と認めざるを得なくされて苦悩する場面に注目する。
 即ちピラトのその苦悩は、38節 「私はあの人に何の罪も認めない」と言いつつも、ユダヤ人を恐れ、急場しのぎで、39、40節 「過越の祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか」と、主の釈放を期待して彼らに聞いているところに顕著。この怖気づくピラトの苦悩は、主の威厳に満ちたお姿によってより厳しさを増していくのを見る。

① 威厳に満ちた主:

 主がピラトから、33節 「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋ねられた時のおことばの落ち着きに見る。34節 詳訳 「あなたは自分〈の考えで〉そのことを言うのか。それとも他の人がわたしについてあなたにそう告げたのか」であるが、主のそのお答えで、ピラトが※35節 詳訳 「私はユダヤ人であろうか」と皮肉っぽく反応していることで分かる。
 ピラトは、この質問に紛れもなく憤慨している。
 この「私はユダヤ人であろうか」には、明らかにユダヤ人であろう筈がない!! お前たちを支配しているれっきとした誇り高きローマ人だ!! 何という無礼な口の利き方であることか!! 理由は分からないが、告訴されて来た貴方からそのような尋ねられ方をされなければならない惨めな者ではない!! 慌てて反撃し、苛立ちを露わにしている。

 更に、主は30節で、「この人が悪いことをしていなければ、あなたに引き渡したりはしません」と訴えられているにも拘らず、自らの無罪を主張して何とか有利に取り計らってもらおうともしない。それどころか堂々と、まるで裁判官の様な風格で、逆に自分の尋問の経緯を聞こうとし、探って来る主に面喰った様子すら伺えるピラトなのだ。
 何故なら、主のお気持ちには、ご自分の死が決定的なものであり、逃れようとのお考えなど微塵もなく、捨て身で臨んでおられるのだから。ここでも主には、ピラトに対して抱く憐みの心しかない。主は、ピラトの※38節c で「私はあの人に何の罪も認めない」とする気持ちを知っておられるだけに、総督としての立場で、果たして勇気ある審判が下せるのか? その為には、自らの立場も栄誉もいのちも捨てられるのか? ピラトの人間的弱さを危惧されて、何とかその極限状態に立つピラトを救おうとされる。
 主は、宮廷の中に居られる。
 しかしピラトはといえば、宮廷に入って来れないでいるユダヤ人を外に待たせる形で出たり入ったりと惨めにも落ち着きを失い、只管ひたすら自分を救おうとして苦悶している。
 主はそのピラトからの※33節 「あなたはユダヤ人の王なのか」と苦し紛れに出して来た質問をすかさずに捕えられ、このチャンスを逃すまいと、彼には不愉快であろう逆質問で、34節 「あなたは・・・」と迫られた。更に又、慌てて※35節をもって主に答えたピラトに、36節 「わたしの国はこの世のものではありません・・・」と時間のない中、究極の証しを。

 主のその魂に対する情熱は、ピラトに関心を寄せさせたことにはっきり見ることが出来る。ピラトは、主のおことばに【彼自身にとっては不本意だったと思われるが】、引き寄せられていく。彼にそこでと、37節a 「それでは、あなたは王なのか」と関心が窺える。主は、彼に期待しておられた反応を受けるや否や間髪入れず、37節b 「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」と!!

② 哀れなピラト:

 ピラトの惨めさは、彼が主を見るに※38節c 「私はあの人に何の罪も認めない」としながらも、裁判執行の最高責任者【19章10節】として正義に従う判決が下せない点にある。
 何故ピラトは、自らの職務を果たせずに恐れ躊躇しているのか? 彼はいつの間にか、目の前の理解し難い人物に魅了され、主の※37節b に反応して、遂に、38節a 「真理とは何なのか」を口にするが、そこまで。無実の主の釈放を願って39節の奥の手を差し出すも、ユダヤ人からの※40節 「・・・バラバを」との狂わんばかりの絶叫にたじろいだ。その声の勢いに、自らの総督の立場を脅かす力を感じたからだ。もしこの者を釈放しようものなら危ういと。

※ 為すべきと知りつつユダヤ人を恐れて妥協を講じ始めたその時、そこから堕落が始まると覚え、瞬時の選択に注意を。

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