聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 63


ヨハネの福音書18章28~32節

 先週は、主の 園での捕縛後、アンナスの前に無私の主と、一方ペテロの自己愛の姿とに見るコントラストに注目した。

ⅰ 主の無私の姿: 大祭司が先ず求めた「弟子たち」には触れず、教えに絞ってのみの答弁。又主の答弁は※22節で下役を激怒させ、主への平手打ちに。主の※23節は、ご自身への不条理の訴えではない。公明正大であるべき司法【アンナスは宗教、政治、経済にまで関与し、神殿を強盗の巣とした張本人。商売人からの暴利の貪り】を歪めていたことへの牽制、叱責。主は聖父に寸分違わず、十字架への道を踏まれる。

ⅱ 一方、ペテロの自己愛: 15、16節に躊躇する彼、徐々に膨れ上がる恐れの感情、臆病に心が締め付けられていくペテロの心の内が見える。ペテロのこの臆病こそが、彼を致命的な失態、主を裏切るという悲劇的場面を生んだ。その出所は心の奥底にしっかり根を下ろしている自己愛なのだ。彼が告白した主への「あなたのためなら」は、一体何処に?

ⅲ このコントラストから三つのことを自問自答:
a. 主がペテロの為に無私の愛で対応して下さっているというのに、丁度その時、私はペテロ同様 臆病者ではないか?
b. ペテロは主を愛しますと言いつつも「弟子ではない」と、主を完全否定したが、私も愛の真価が問われるべきでは?
c. ペテロは主を思う余り剣を抜いたが、主から戒められたとするならば、私の主への熱心さの動機は大丈夫か?

※ ペテロは後、生来の思いをもってしては「あなたのためなら」と到底言えるものではないとの打ち砕かれた自覚に立った器だったことを覚えて、主の愛の前に謙りたい、と。


 今朝は、主が※18章28節 「カヤパのもとから総督官邸に連れて行」かれ、総督ピラトによって、19章16節a 「十字架につけるため彼らに引き渡」されるまでの長い尋問の様子が伝えられている記事の初めの部分に注目したい。
 ここで確認しておきたい。
 ユダヤ人の裁判には三段階あったこと。先ず、先週学んだ【アンナスの前で】、続いて【大祭司カヤパとサンへドリン議会の前での非公式尋問】、そして公式尋問とであるが、ヨハネはこの初めのアンナスの前での尋問だけを扱い、次のカヤパでの尋問については省いて、唯※24節 「アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送った」とだけに留める。
 遂に尋問の場所が、そのカヤパから総督官邸に移されることになるので【ユダヤ人の裁きから、ローマの裁きに引き渡され】この時点で、ユダヤ人による裁きが終ることになる。
 19章16節 「ピラトは、イエスを十字架につけるため彼ら【ユダヤ人】に引き渡し」て一切の尋問を終え、遂に、主はゴルゴダの丘の処刑場に向かわれることに。
 ローマの尋問も又、三段階あったことに触れておきたい。
 初めは、カヤパから移されたピラトの前での尋問。次いで、ルカ23章6~12節 「※7 イエスをヘロデのところに送った」と、ローマによって任命されたユダヤ人のガリラヤ地方の長官ヘロデ・アンテパス【ヘロデ大王の息子で、バプテスマのヨハネを処刑した人物】の前で、最後に再度ピラトの前で。
 ということは、ヨハネにおいては、主の裁きは、ピラトの前での尋問にだけ割いたことになる。

 いみじくも、聖書学者メリル・C・テニイは “ ピラトの前でキリストが審問を受けているのではなく、キリストの前でピラトが審問を受けている ” と言っているが、至言である!!
 確かに、19章10、11節を見ると、主が余りにもご自身の不利になる証言を耳に為さりつつも、沈黙を守っておられることに苛立ったピラトが、「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか」に対して、「イエスは答えられた。『上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません・・・』」と。これ程の至近距離で、主の前に立つことが許されているピラトは、この上もない好機を与えられたというのに、どのように立ち振る舞ったのか、主の前で揺れ動く彼の心の動きに触れることになるが、19章16節までの裁きで先ず今朝は、18章28~32節に絞って Message を。
 この箇所は、もう既に、大祭司とサンヘドリンによる宗教裁判で《 主を死刑罪に定め、後は、31節c によるローマ政府の判決を待つだけ 》ということでやって来た議員たちと、主を引き取ることになった総督ピラトとのやり取りである。
 主をたらい回しにして裁く人々の、如何にも惨めな内面が露呈されているやり取りを見なければならない。

① 28節 「・・・彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった」として、ユダヤ人の慣習を厳格に守ろうとする《 祭司長、長老たち及びユダヤ人たち 》の偽善。

 確かに彼らの律法によれば、使徒10章28節はペテロが扱われて正された部分で、彼らは総督ピラトの下に送り込まなければならなかった時、ピラトが異邦人であった為、汚されまいとした。彼らにとって神を恐れるとは?
 マタイ23章23~28節での主のご指摘のように、唯、律法の形を重視するだけのこと。23節 「律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている・・・」という自己欺瞞。
 汚れは、今正に主を死刑に定めた(マタイ27章1節)内的腐敗にあるのであって、「官邸の中に入る」ことにはない。

② 31節 「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい」に見る責任逃れを図るピラトの卑怯。

 ユダヤ人の主張【31節c】通り、死刑執行の権限を剥奪されている彼ら。ピラトの〈それと知りながら突き返す〉無責任さには、関わることへの個人的弊害を恐れて逃避する魂胆が。

③ 32節 「これは、イエスがどのような死に方をするかを示して言われたことばが、成就するためであった」に見る神の圧倒的な権威。

 使徒26章26節に、全世界に打ち立てられるべき福音の証しを見る。ユダヤ人の石打ち刑によってではなく、ローマ人の十字架刑によるべきだった。ローマ政府の抑圧による定めにも依然として神の権威が息づいている。

※ いよいよ主を畏れることにのみ幸いがあるとの信仰を!!

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