聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 62


ヨハネの福音書18章12~27節

 先週は、17章で「父よ、時が来ました」と、子羊として屠られる地上最後の時を目前に 復活の成就を祈られた主が、遂に、ゲツセマネの園に退かれた場面に思いを馳せた。
 へブル5章7節は、主の地上生活の日々、聖父との密着した交わりを垣間見させる貴重な聖句であるが、特にゲツセマネの園での壮絶な悶え苦しまれた祈り。
 ヨハネは1節で、「そこには園があり」とだけ伝えているが、2節からユダと暴徒たちを迎えた時の《 主の気高い振る舞い 》に、園での聖父を愛するが故の激しい苦悶に勝利を得られた様子を読み取れるのでは ⇒ 11節 詳訳 「父がわたしに下さった杯をわたしが飲まないということがあり得ようか」。

ⅰ 4節b 「進み出て、『だれを捜しているのか』と・・・言われた」主。
 捕縛を逃れようとはせず、むしろ自主的に臨まれた主。主の聖父へのその従順は力となり、6節 「彼らは後ずさりし、地に倒れた」と、暴徒たちを怖気づかせた。

ⅱ 8節 「この人たちは去らせなさい」と弟子たちを気遣う主。
 ご自身の捕縛によって及び兼ねない弟子たちの捕縛を懸念され、彼らの関心を全面的にご自身に向けさせることで、弟子たちを保護された弟子への愛。

ⅲ 11節a 「剣をさやに収めなさい」とペテロを戒められた主。
 聖父とご自身との関係に忍び込もうとする人間的同情の介入を許さず、むしろペテロの好意の奥にある暴徒への敵対心を扱われて真っ向から退け、マルコスを手当てされた。

※ 人類を贖あがなわれる聖父の御心を「飲むべき杯」とされ、確かな勝利感をもって捕縛に身を委ねられた主に従いたいと。


 今朝は、12、13節で遂に、ゲツセマネの園で捕縛され主が、「まずアンナスのところに連れて行」かれてから、【19~24節】尋問を受けられる出来事と、一方、主の行方を気にして付いて行った二人の弟子、即ち、15節 「シモン・ペテロともう一人の弟子【ヨハネ】」、特に、主を否んだペテロの痛ましい出来事とを同時に見ることになる記事に注目したい。
 ここでのコントラストに注目しなければならない。
 そのコントラストとは、アンナスに訊問じんもんされる主の《 ご自身に死なれた完全な無私 》の姿と、ペテロの《 自らに死ぬことの出来ない悲しむべき自己愛 》の姿とでのこと。

① 主の無私の姿:

 19節 「大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した」に対する主のお答えは、20、21節 「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。・・・わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい・・・」だった。
 大祭司が先ず知りたかったことは「弟子たちのこと」だったのでは? しかし主は弟子たちのことには全く触れず【弟子たちには手出しさせまいと】、教えのことに絞られた。
 しかも主のお答えは、傍そばで聞いていた下役を激怒させ、22節 詳訳 「それが大祭司に対する答えの仕方か」と言わせ、「平手で」主を打たせることに。カヤパの指図では?
 その時の大祭司はカヤパ。が、13節b 「カヤパのしゅうと」アンナスが尚 大祭司に居座って存在感を露わにしていたから。
 平手打ちされた直後、主が、23節 「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか」と言われたおことばは、ご自身への不条理さを訴えられたのではない。
 元来、公明正大であるべき司法【彼は単に宗教的なことだけでなく、政治、経済にまで関与していた。主が二度宮清めされたことで明白 ⇒ 強盗の巣とし、商売する人々から暴利を貪っていた】を歪めていたことへの牽制、叱責である。
 主は極めて冷静に、聖父の み思いを厳格に寸分違わずに従うことに命をかけ、十字架への道を進めておられる。

② 一方、ペテロの悲しむべき自己愛:

 15、16節で、主のことが気掛かりで後を追っている二人のうちのもう一人の弟子は中庭に入っても、「ペテロは外で門のところに立っていた」に、躊躇する彼の様子を見る。
 もう一人の弟子の勧めで、中庭に入ることになるが、彼の気持ちには、徐々に膨れ上がる恐れの感情、臆病に心が締め付けられていくペテロの心の内が見える。
 ペテロのこの臆病こそが、彼を致命的な失態、主を裏切るという《 悲劇的場面を生んだ 》のだが、その出所は心の奥底にしっかり根を下ろしている自己愛なのだ。
 恐る恐る中庭に入ったペテロは、17節 「すると」と、正にペテロのその臆病さにつけ入るように、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と、悲しいかな「違う」と。
 25節から、二度目、三度目と質問が続く。
 ペテロにとって何と!! おぞましい場面となったことか。
 25節 「・・・すると、人々は彼に『あなたもあの人の弟子ではないだろうね』と言った。ペテロは否定して、『弟子ではない』と言った」。26、27節 「・・・『あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。』 ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた」。
 もし私だったら・・・と考える時、戦慄が走る情景!!
 彼が告白した主への「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言ったあの言葉は、一体何処に?

③ このコントラストから三つのことを自問自答したい:

a. 主がペテロの為にご自身を常に死に渡し続けて下さっている、その為に、主が、22節 「平手で」打たれているというのに、その時、私はペテロのようではないか?
b. ペテロが主を愛しますと言いながら、いざという時には、その告白は空しく、「弟子ではない」と完全否定した出方は、私においてもペテロのようではないか?
c. 確かにペテロは、主を思う余り剣を抜いたが、主は、そのペテロを戒め、その勢いを歓迎されなかったとするならば、ペテロが主を愛すると言い切った愛が試されたように、私の主への愛も試されなければならないのではないか?

※ ペテロには、生来の思いをもってしては「あなたのためなら」とは到底言えるものではないとの《 打ち砕かれた自覚 》に立たされた経験だったことを覚えて、主の愛の前に謙りたい。

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