イースター礼拝『ヨハネの福音書』より 61


ヨハネの福音書18章1~11節

 先週は、17章の祈りの最後の※17章20節 「彼らのことばによって・・・信じる人々のために」祈られた祈りに注目した。

ⅰ 「彼らのことばによってわたしを信じる人々」と言われる主に、弟子たちによる宣教の結実を確信された愛を見る。
 弟子たちが仮に一度は躓いたとしても、必ず「立ち直・・・ ルカ22章32節」り、互いを激励し合うことに留まらず、ローマ帝国を相手に命がけで宣教し、多くの人々を救いに導くとの確信。主への反逆がどれ程であれ、「激しく泣い・・・ ルカ22章62節」て砕かれたペテロの涙を知っての信任。

ⅱ 21節 「世が信じるようになるため」とのこの目的達成の為に《 弟子たちの霊的必要 》を求められたこと。
 実は、ここに《 宣教の鍵 》が説き明かされている。
 主は、21a、22b、23節でも「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と、ご自身の聖父への従順による一致を表明されて後の、弟子たちの霊的必要の祈り。
 弟子たちの一致こそ、宣教の結実の大前提だからだ。
 その結果、21節 「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようにな」り、23節 「わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知る」ようになると。
 この霊的一致とは、エペソ4章3節b 詳訳 「御霊が作り出してくださった御霊の調和【一致】 」で、肉のままの弟子たちが、聖霊のお扱いによって、十字架による赦しと清めに与っては、聖霊の満たしによって得られる霊的一致。

※ 弟子間の愛の一致こそ宣教の鍵と覚え、今、世界的規模の危機に在って、先ず私を教会を霊的一致にとの祈りをと。


 今朝は、主が、18章1節 「これらのことを話してから」、即ち、17章1節 「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」と《 子羊として屠られる地上最後の時を目前に、復活の成就 》を祈られてから、遂に、ゲツセマネの園に退かれた場面に思いを馳せたい。
 このゲツセマネの園で主がどの様に祈られたかについては、他の共観福音書の記録と共に、へブル5章7節にその詳細を見ることが出来る。
 詳訳 「イエスは地上でのご生涯に在って、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を何時でも死から救い出すことの出来る方に向かって、はっきりとした特別必要とされたことについて嘆願を捧げられました。そして彼の持っておられた神に対する崇敬の為に《 彼が輝かしい父のご臨在から切り離される恐怖の為にひるまれたこと 》により、聞き入れられました」。
 この聖句は、主の33年間の日々における聖父との交わりがどれ程密着したものであったかを垣間見させてくれる貴重なおことばであるが、特に、ルカの記す「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。22章44節」に見るゲツセマネの園での壮絶な悶え苦しまれつつ祈られた時の祈りを伝えるおことば。
 ヨハネは、他の福音記者とは趣を異にして、唯、1節 「そこには園があり」とだけ伝えているが、2節から登場する《 ユダと、暴徒たちに向き合われる 》主の気高い振る舞いを見る時、その園で《 聖父を愛するが故の激しい苦悶の後、毅然たる従順に力を得られた 》勝利感を言外に伝えている。

 その園での勝利感とは、11節 詳訳 「わたしの父がわたしに下さった杯をわたしが飲まないということがあり得ようか」の確固たるご意志に明確。
 即ち、御子が罪人に代わり、聖父から完全に呪われて罪人に代わり死ぬことなくして、聖父の贖あがないの計画の成就はない。御子が聖父から捨てられて死ぬことが、どれ程の恐怖であろうと、飲み干すことによらない限り贖いはない。しかしその死を飲み干しさえすれば、聖父は聖霊によってその死からよみがえらせ、その時、地上における任務を《 聖父を愛し、罪人を愛するが故に 》全うすることになるとのご決意。
 主は、この確固たる決意をもってゲツセマネの園を立ち上がられて以降、最早、微動だにせず真っ直ぐに十字架に突き進まれることになられたのだ。
 死んで後 よみがえることによって成就する贖いを喜ばれた主について、4節a 「ご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられた」とあり、ここでユダを迎えられた。この勝利感をもって臨まれた主に注目したい。

4節b 「進み出て、『だれを捜しているのか』と彼らに言われた」主。

 10章18節 「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです」。
 あくまでも、捕縛を少しも逃れようとはせず、自主的!!
 主のこの勇敢な出方は、18章6節 「・・・彼らは後ずさりし、地に倒れた」とは!! 勝利者主は、暴徒たちを怖気づかせた!!

② 8、9節 「イエスは答えられた。『わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。』これは、『あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった』と、イエスが言われたことばが成就するためであった」に見られる弟子たちを気遣う主。

 ご自身の捕縛によって及び兼ねない弟子たちの捕縛を懸念され、彼らの関心を全面的にご自身に向けさせることで、弟子たちを保護された弟子への愛。

③ 11節a 「剣をさやに収めなさい」とペテロを戒められた主。

 聖父とご自身の関係に忍び込もうとした人間的同情の介入を許さなかった。ペテロは主を思う余り、10節 「大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とし」、つい剣を抜いて主を保護しようとしたが、主はペテロの好意を真っ向から退け、むしろ彼を咎め、ルカ22章51節 「耳にさわって癒やされた」と。切り落とされたマルコスの耳を手当てされた。ユダと暴徒たちの手から主を守ろうといきり立ったペテロの内にある敵対心を見過さずに扱われた。

※ 人類の贖いの為《 完全な死からの復活が不可欠 》との聖父の御心を「飲むべき杯」とされた主は、遂に、より確かな勝利感をもって捕縛に身を委ゆだねられた。お互いの力としたい。

この記事へのコメント