ヨハネの福音書17章6~19節
先週は、最後の晩餐からゲツセマネの園に向かわれる途中、主がこれから臨まれる捕縛、裁判、処刑を前に聖父に祈られた祈りの※1~5節・ご自身の為に祈られた二つの祈りに注目!!
ⅰ 1節 「子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現して・・・」。
ここでの「子の栄光」とは、ピリピ2章5~11節の9節 「高く上げて」がその解説で、死からの復活に与ること。
ここに見えるものは?
a. 主は弟子たちには、16章33節 「・・・わたしはすでに世に勝ちました」と言われた直後、その世に勝つ為に、復活を祈られた祈りで、主はご自身の信仰の確信も、聖父の御力によらなければ維持出来るものではないとされた謙りを。
b. あくまでも、「子があなたの栄光を現すために」と祈る主に、聖父への徹底して変わらない愛を。ピリピ2章9~11節 「・・・すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」とある、ここに。
c. 「あなたが下さったすべての人」とある人類への重荷。
ⅱ 5節 詳訳 「父よ、あなたは、世の存在以前に、わたしがあなたとともに居て持っていたあの栄光を現して下さい」。
ここでの「わたしの栄光」とは、1章18節 「父のふところ【父に最も身近】におられるひとり子の神」とあるように、三位一体の神との比類なき聖にして完全な愛の交わりの中に帰りたいとの祈り。聖父とでしか味わえない聖なる愛の交わりへの憧れ。贖あがなわれた私たちも又、ローマ8章14~17節の天を憧れる思いにおいては主のこの祈りに近くありたい。
※ 祈りをもってカルバリに臨まれる主の御傍 近くにと。
今朝は、主がご自身の為に祈られた後、9節 「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします」と、弟子たちの為に祈られた祈りに注目したい。
① 弟子たちの為の祈りには、主が彼らに寄せておられる愛の強さ《 彼らへの厚い信頼、期待、確信 》が見られる。
6節d 「彼らはあなたのみことばを守りました」、7、8節 「あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今【16章29、30節】彼らは知っています。あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました」、10節b 「わたしは※彼らの中で栄光を受けました【第二テサロニケ1章10節】」とある。
今まで、弟子たちが主に抱いていた《 信仰的理解とその態度を見るに 》主のお心を満たすことなど、ほぼ見受けられなかったのでは? ところが、11節 「わたしはもう世にいなくなります」という日、主の目には、弟子たちが、次のステップの為に最小限 整えられていたことになる。
主の目に何と、尊く映っているのだ!! 掛け替えのない一人一人となっているのだ!! だとすれば、主の※16章31節 詳訳 「あなたがたは遂に信じるというのか」は、主の最も確認したかった《 この一事を確実に体得されたことへの手応え 》に感極まった、待ちに待った瞬間だったことになる!!
更に主は、その弟子たちに安堵して喜んでおられる。
6節a 「あなたが世から選び出」され、6節b’ 「あなたのものでしたが、あなたはわたしに委ゆだね」られた存在として。
但し、主のこの日まで彼らに注がれた労苦は並の事ではなかった。例えば、6節 「わたしはあなたの御名(聖父が如何なるご性質をお持ちで、どのようなお方であられるのかの明示)を現」す上で、8、14節 「あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与え」られたことにおいての忍耐 が、主は、あくまでもそれらの労苦を数えることなく、ひたすら聖父のものであるとの意識で、自らの聖父への忠実であることにのみ関心を抱かれた。
その様な訳で、彼らの為の祈りも、9節c 「彼らはあなたのものですから」と、主の彼らに抱く個人的な愛着、愛情によってではなく、完全に手放して聖父の御心の為にと!!
② 弟子たちの為に祈られたこととは?
a. 11節 「聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです」。
この祈りには、12節に「滅びの子」の言及があるが、ユダの主への裏切りは、後、他の弟子たちにどれ程の激震を走らせる衝撃的出来事だったことか想像するに余りある。
最後の晩餐の席で主が裏切る者の名を伏せ、唯、「わたしがパン切れを浸して与える者が」それです、とだけ言われたのも、その場での騒動を避けられたご意図で察せられる。
弟子たちに「互いの間に愛があるなら」と言われた主。
如何なることがあっても、宣教の担い手である弟子たちの間に少しのひび割れ状態もあってはならない、聖父と御子との間にある一致こそが重要だからだ。
b. 15節 「あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」。
14節 「・・・世は彼らを憎みました」に続く繋がりから読む時、迫害によって殉教死を予知されての祈り。苦難からの解放ではなく、宣教の働きの継続の祈り。自己を苦難から免れさせることによる救いではなく、苦難を受けつつも弟子たちに託された宣教持続の祈り。
c. 17節 詳訳 「真理をもって彼らをきよめて、聖なる用に当てて、あなたの為に分離して下さい。彼らを聖なる者にして下さい」 聖父に取り分けられた器として頂きたい。
③ 主の弟子たちの為の祈りには、主の献身があったこと。
19節 「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです」。
弟子たちが《 聖父の為に取り分けられた生涯を送る者となる為に 》先ず、主ご自身が聖父の為に捧げるとの告白。
取りも直さず、聖父の御心である「世の罪を取り除く神の子羊」として完全な供え物となるとの決意の表明。
※ 弟子の為に捧げられた主のこの祈りは、お互いが隣人の為に祈る祈りであるべきではないか!! 己を捨てた祈りを!!
先週は、最後の晩餐からゲツセマネの園に向かわれる途中、主がこれから臨まれる捕縛、裁判、処刑を前に聖父に祈られた祈りの※1~5節・ご自身の為に祈られた二つの祈りに注目!!
ⅰ 1節 「子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現して・・・」。
ここでの「子の栄光」とは、ピリピ2章5~11節の9節 「高く上げて」がその解説で、死からの復活に与ること。
ここに見えるものは?
a. 主は弟子たちには、16章33節 「・・・わたしはすでに世に勝ちました」と言われた直後、その世に勝つ為に、復活を祈られた祈りで、主はご自身の信仰の確信も、聖父の御力によらなければ維持出来るものではないとされた謙りを。
b. あくまでも、「子があなたの栄光を現すために」と祈る主に、聖父への徹底して変わらない愛を。ピリピ2章9~11節 「・・・すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」とある、ここに。
c. 「あなたが下さったすべての人」とある人類への重荷。
ⅱ 5節 詳訳 「父よ、あなたは、世の存在以前に、わたしがあなたとともに居て持っていたあの栄光を現して下さい」。
ここでの「わたしの栄光」とは、1章18節 「父のふところ【父に最も身近】におられるひとり子の神」とあるように、三位一体の神との比類なき聖にして完全な愛の交わりの中に帰りたいとの祈り。聖父とでしか味わえない聖なる愛の交わりへの憧れ。贖あがなわれた私たちも又、ローマ8章14~17節の天を憧れる思いにおいては主のこの祈りに近くありたい。
※ 祈りをもってカルバリに臨まれる主の御傍 近くにと。
今朝は、主がご自身の為に祈られた後、9節 「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします」と、弟子たちの為に祈られた祈りに注目したい。
① 弟子たちの為の祈りには、主が彼らに寄せておられる愛の強さ《 彼らへの厚い信頼、期待、確信 》が見られる。
6節d 「彼らはあなたのみことばを守りました」、7、8節 「あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今【16章29、30節】彼らは知っています。あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました」、10節b 「わたしは※彼らの中で栄光を受けました【第二テサロニケ1章10節】」とある。
今まで、弟子たちが主に抱いていた《 信仰的理解とその態度を見るに 》主のお心を満たすことなど、ほぼ見受けられなかったのでは? ところが、11節 「わたしはもう世にいなくなります」という日、主の目には、弟子たちが、次のステップの為に最小限 整えられていたことになる。
主の目に何と、尊く映っているのだ!! 掛け替えのない一人一人となっているのだ!! だとすれば、主の※16章31節 詳訳 「あなたがたは遂に信じるというのか」は、主の最も確認したかった《 この一事を確実に体得されたことへの手応え 》に感極まった、待ちに待った瞬間だったことになる!!
更に主は、その弟子たちに安堵して喜んでおられる。
6節a 「あなたが世から選び出」され、6節b’ 「あなたのものでしたが、あなたはわたしに委ゆだね」られた存在として。
但し、主のこの日まで彼らに注がれた労苦は並の事ではなかった。例えば、6節 「わたしはあなたの御名(聖父が如何なるご性質をお持ちで、どのようなお方であられるのかの明示)を現」す上で、8、14節 「あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与え」られたことにおいての忍耐 が、主は、あくまでもそれらの労苦を数えることなく、ひたすら聖父のものであるとの意識で、自らの聖父への忠実であることにのみ関心を抱かれた。
その様な訳で、彼らの為の祈りも、9節c 「彼らはあなたのものですから」と、主の彼らに抱く個人的な愛着、愛情によってではなく、完全に手放して聖父の御心の為にと!!
② 弟子たちの為に祈られたこととは?
a. 11節 「聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです」。
この祈りには、12節に「滅びの子」の言及があるが、ユダの主への裏切りは、後、他の弟子たちにどれ程の激震を走らせる衝撃的出来事だったことか想像するに余りある。
最後の晩餐の席で主が裏切る者の名を伏せ、唯、「わたしがパン切れを浸して与える者が」それです、とだけ言われたのも、その場での騒動を避けられたご意図で察せられる。
弟子たちに「互いの間に愛があるなら」と言われた主。
如何なることがあっても、宣教の担い手である弟子たちの間に少しのひび割れ状態もあってはならない、聖父と御子との間にある一致こそが重要だからだ。
b. 15節 「あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」。
14節 「・・・世は彼らを憎みました」に続く繋がりから読む時、迫害によって殉教死を予知されての祈り。苦難からの解放ではなく、宣教の働きの継続の祈り。自己を苦難から免れさせることによる救いではなく、苦難を受けつつも弟子たちに託された宣教持続の祈り。
c. 17節 詳訳 「真理をもって彼らをきよめて、聖なる用に当てて、あなたの為に分離して下さい。彼らを聖なる者にして下さい」 聖父に取り分けられた器として頂きたい。
③ 主の弟子たちの為の祈りには、主の献身があったこと。
19節 「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです」。
弟子たちが《 聖父の為に取り分けられた生涯を送る者となる為に 》先ず、主ご自身が聖父の為に捧げるとの告白。
取りも直さず、聖父の御心である「世の罪を取り除く神の子羊」として完全な供え物となるとの決意の表明。
※ 弟子の為に捧げられた主のこの祈りは、お互いが隣人の為に祈る祈りであるべきではないか!! 己を捨てた祈りを!!
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