ヨハネの福音書17章1~5節
先週は、最後の晩餐の席での訓示がこれで最後の最後となる《 主と弟子たちとの会話 》の鍵句として※33節に注目した。
ⅰ 「世にあっては苦難があります」。
苦難とは、人誰しもが受けるであろう苦難のことではなく、15章18~25節に学んだ《 主に従う者であるが故に被る、従うなら必然的に受けるだろう苦難 》のこと。
ⅱ 「しかし、勇気を出しなさい」。
詳訳 「堅く信じ、確信を持ち、臆せずにいなさい」と。今、主が去ることで、20節 「泣き、嘆き悲しむ」としても、22節 「わたしは再びあなたがたに会います。・・・心は喜びに満たされ・・・その喜びを・・・奪い去る者は」ないからと。
その根拠は、詳訳 「わたしはあなたがたの為に、世からその害する力を奪い取った、世を征服したから」と!!
主が、「すでに世に勝ちました」とは、何という確信。
これは、十字架の死後の復活によって初めて成就するのだが、主が既に、十字架刑に臨まれる前に言っておられる《 勝つだろうではない勝利宣言!! 》何という決意の程が!!
お互い、決意で何かを成し遂げられるものではないことは知っている。しかし、決然と臨まれた主の姿勢を見る時、聖霊によってなら出来る、むしろ「勝った」と言って臨むべきとする真剣さ、真面目さ、危機感こそ必要なのだ。
主の「勝った」と言われる姿勢を見て、〈自らの弱さを盾に取って生きる甘え〉のない在り方に挑戦したい。何故なら、23、24、26、27節 「求めなさい。そうすれば受けます」とある。
※ 「勝ちました」と十字架に向かわれた主に信仰的服従をと。
今朝辿り着いた17章は、1節に「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた」とある様に、最後の晩餐から立ち上がられた主が弟子たちと共に、ゲツセマネの園に向かわれる途中? でのこと、主がこれから臨まれる捕縛、裁判、処刑に備えられる為に立ち止まり、《 聖父に祈られた祈りの章 》となるが、今朝は先ず、1~5節の《 ご自身の為に祈られた祈り 》に注目したい。
続く、6~19節は、6節 「あなたが世から選び出して与えてくださった人たち」弟子たちの為の執り成しの祈り、最後に、20~26節 「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々【教会】のためにも、お願いします」となっている。
1~5節で主がご自身の為に祈られたのは、唯二つのこと!!
① 1節 「子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」。
「子の栄光を現してください」とは、詳訳 「あなたの子を高く〈尊んで〈大いなる者として〉下さい」とあり、ピリピ2章5~11節※9節 詳訳 「それ故に【御子がそれ程までにご自身を低くされたので】神は御子を高くお上げになり、全ての名に優る名を惜しみなく与えられた」がその解説。
即ち、主の求められた「栄光」とは《 死からの復活に与る 》こと。イザヤ52章13節 「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる」と、自ら引き受ける仕事に成功するとの預言で既に明白である。
主は、何としても 復活に与る必要があるのですと語られた時、2、3節 「あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」と。
主のこの祈りに見えるものは?
a. 主は弟子たちには既に、16章33節 「・・・勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と言われたばかりなのに、その直後、世に勝つ、復活の為に祈られた祈りであるが、主はご自身の信仰の確信、絶対に勝たなければならないとの決意も、聖父の御力によらなければ、決して維持出来るものではないとされた謙りを。
b. あくまでも、1節 「・・・子があなたの栄光を現すために」と祈る主に聖父への徹底して変わらない愛を。
「あなたの栄光を現すために」との祈りは、4節 「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました」と、これまで33年間のご生涯における一貫した聖父への愛を貫いたにも拘らず、改めて聖父への愛を告白しておられる。
確かに主は、受洗の時「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。マタイ3章17節」、変貌山での姿変わりの時「・・・『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け』 同17章5節」と、ご生涯における重要な局面で、聖父からの証を得ておられる。
主はあくまでも、ご自身の栄誉を求めず、唯、主が死者の中から復活することによって、“ わたしではなく、聖父の栄光が現される為にです ” と聖父の栄光の為に祈られた。実に、ピリピ2章9~11節 「・・・すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」とあるように。
c. 「あなたが下さったすべての人」とある人類への重荷。
② 5節 詳訳 「父よ、・・・世の存在以前に、わたしがあなたとともに居て持っていたあの栄光を現して下さい〈わたしをそのような威光、誉れに返して下さい〉」。
ここでの「わたしの栄光」とは、24節にも言及がある。1章18節 「父のふところ【父に最も身近】におられるひとり子の神」とあるように、三位一体の神との比類なき聖にして完全な愛の交わりの中に帰りたいとの祈り。1章14節 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれ」ての33年間は「悲しみの人」として耐えられた。人類の贖あがないが成し遂げられさえしたならば、即刻、聖父の許へとの願い。
神である主が人となる為に捨てられた権威、権利をもう一度取り戻して、聖父と共に喜ぶ喜びの回復の祈り。聖父とでしか味わうことの出来ない聖なる愛の交わりへの憧れ。
あくまでも罪人の私たちだが、神である主と同様ではあり得ないが、ローマ8章14~17節の《 神の子とされた私たちも 》天を憧れる思いにおいては主の祈りに近くありたい。
※ 祈りをもってカルバリに臨まれる主の御傍により近く!!
先週は、最後の晩餐の席での訓示がこれで最後の最後となる《 主と弟子たちとの会話 》の鍵句として※33節に注目した。
ⅰ 「世にあっては苦難があります」。
苦難とは、人誰しもが受けるであろう苦難のことではなく、15章18~25節に学んだ《 主に従う者であるが故に被る、従うなら必然的に受けるだろう苦難 》のこと。
ⅱ 「しかし、勇気を出しなさい」。
詳訳 「堅く信じ、確信を持ち、臆せずにいなさい」と。今、主が去ることで、20節 「泣き、嘆き悲しむ」としても、22節 「わたしは再びあなたがたに会います。・・・心は喜びに満たされ・・・その喜びを・・・奪い去る者は」ないからと。
その根拠は、詳訳 「わたしはあなたがたの為に、世からその害する力を奪い取った、世を征服したから」と!!
主が、「すでに世に勝ちました」とは、何という確信。
これは、十字架の死後の復活によって初めて成就するのだが、主が既に、十字架刑に臨まれる前に言っておられる《 勝つだろうではない勝利宣言!! 》何という決意の程が!!
お互い、決意で何かを成し遂げられるものではないことは知っている。しかし、決然と臨まれた主の姿勢を見る時、聖霊によってなら出来る、むしろ「勝った」と言って臨むべきとする真剣さ、真面目さ、危機感こそ必要なのだ。
主の「勝った」と言われる姿勢を見て、〈自らの弱さを盾に取って生きる甘え〉のない在り方に挑戦したい。何故なら、23、24、26、27節 「求めなさい。そうすれば受けます」とある。
※ 「勝ちました」と十字架に向かわれた主に信仰的服従をと。
今朝辿り着いた17章は、1節に「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた」とある様に、最後の晩餐から立ち上がられた主が弟子たちと共に、ゲツセマネの園に向かわれる途中? でのこと、主がこれから臨まれる捕縛、裁判、処刑に備えられる為に立ち止まり、《 聖父に祈られた祈りの章 》となるが、今朝は先ず、1~5節の《 ご自身の為に祈られた祈り 》に注目したい。
続く、6~19節は、6節 「あなたが世から選び出して与えてくださった人たち」弟子たちの為の執り成しの祈り、最後に、20~26節 「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々【教会】のためにも、お願いします」となっている。
1~5節で主がご自身の為に祈られたのは、唯二つのこと!!
① 1節 「子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」。
「子の栄光を現してください」とは、詳訳 「あなたの子を高く〈尊んで〈大いなる者として〉下さい」とあり、ピリピ2章5~11節※9節 詳訳 「それ故に【御子がそれ程までにご自身を低くされたので】神は御子を高くお上げになり、全ての名に優る名を惜しみなく与えられた」がその解説。
即ち、主の求められた「栄光」とは《 死からの復活に与る 》こと。イザヤ52章13節 「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる」と、自ら引き受ける仕事に成功するとの預言で既に明白である。
主は、何としても 復活に与る必要があるのですと語られた時、2、3節 「あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」と。
主のこの祈りに見えるものは?
a. 主は弟子たちには既に、16章33節 「・・・勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と言われたばかりなのに、その直後、世に勝つ、復活の為に祈られた祈りであるが、主はご自身の信仰の確信、絶対に勝たなければならないとの決意も、聖父の御力によらなければ、決して維持出来るものではないとされた謙りを。
b. あくまでも、1節 「・・・子があなたの栄光を現すために」と祈る主に聖父への徹底して変わらない愛を。
「あなたの栄光を現すために」との祈りは、4節 「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました」と、これまで33年間のご生涯における一貫した聖父への愛を貫いたにも拘らず、改めて聖父への愛を告白しておられる。
確かに主は、受洗の時「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。マタイ3章17節」、変貌山での姿変わりの時「・・・『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け』 同17章5節」と、ご生涯における重要な局面で、聖父からの証を得ておられる。
主はあくまでも、ご自身の栄誉を求めず、唯、主が死者の中から復活することによって、“ わたしではなく、聖父の栄光が現される為にです ” と聖父の栄光の為に祈られた。実に、ピリピ2章9~11節 「・・・すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」とあるように。
c. 「あなたが下さったすべての人」とある人類への重荷。
② 5節 詳訳 「父よ、・・・世の存在以前に、わたしがあなたとともに居て持っていたあの栄光を現して下さい〈わたしをそのような威光、誉れに返して下さい〉」。
ここでの「わたしの栄光」とは、24節にも言及がある。1章18節 「父のふところ【父に最も身近】におられるひとり子の神」とあるように、三位一体の神との比類なき聖にして完全な愛の交わりの中に帰りたいとの祈り。1章14節 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれ」ての33年間は「悲しみの人」として耐えられた。人類の贖あがないが成し遂げられさえしたならば、即刻、聖父の許へとの願い。
神である主が人となる為に捨てられた権威、権利をもう一度取り戻して、聖父と共に喜ぶ喜びの回復の祈り。聖父とでしか味わうことの出来ない聖なる愛の交わりへの憧れ。
あくまでも罪人の私たちだが、神である主と同様ではあり得ないが、ローマ8章14~17節の《 神の子とされた私たちも 》天を憧れる思いにおいては主の祈りに近くありたい。
※ 祈りをもってカルバリに臨まれる主の御傍により近く!!
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