ヨハネの福音書16章16~33節
先週は、主が、ご自身が去って行くことで動揺している弟子たちに、迫害の事実を語ったのは※1節 詳訳 「あなたがたが不意を打たれてよろめかない、躓きと反発に陥ることのないように、あなたがたを守る為だ」と伝えた後、7節 「しかし・・・わたしが去って行くことは・・・益」と言われた所に学んだ。
「益」とは、7節 「去って行かなければ・・・。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします」にある。
ⅰ 御霊の世への働き 8節
9節 「罪」とは、「わたしを信じない」こと。
主のことばとわざによっても主を信頼しなかった頑なな者に聖霊が認罪を与え、悔い改めへの転換を起こされると。
10節 「義」とは、主を聖父が 死者の中からの復活の事実によって、主の神の子であるとの義を明らかにされると。
11節 「さばき」とは、主の復活が死に打ち勝たれたことにより、サタンの敗北宣言【創世記3章15節】がなされること。
ⅱ 御霊と弟子たちへの働き 13節 「・・・真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます」。
聖霊との交わりによって、いよいよ真理が分かるようにされていくとの約束。
ⅲ 御霊と主への働き 14節 「御霊はわたしの栄光を・・・」。
三位一体の神《 聖父は計画し、御子が父の栄光を、御霊は御子の栄光を現すべく、人々を認罪に導き、神の子たちには内住して日夜御子の血潮をもっては完成に導かれる。
※ 弟子たちへの懇ろな主の語り掛けは、お互いへのものとして励まされ、大胆にこの世に出る者でありたい、と。
今朝は、最後の晩餐の席での訓示がこれで最後の最後となる《 主と弟子たちとの会話 》の鍵※33節に注目したい。
弟子たちは、16節で主が、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます」と言われたことが理解出来ず、17、18節 「そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。『・・・どういうことなのだろうか。』・・・『しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない』と言った」と。しかし彼らは、主が、19節 「彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた」とあることから、尋ねるのを躊躇っていたようだ。
そこで主は、その彼らの思いを放置せずに「互いに論じ合っているのですか」と、その弟子たちの戸惑い、しかし尋ねることが出来ずにいる様子をしっかり受け止めておられる。
最終的に彼らは、主の懇ろな説明を受けて、29、30節 「弟子たちは言った。『本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。』」との確信に導かれた。
この告白を聞かれた主は、31、32節 詳訳 「あなたがたは今、遂に信じるというのか。しかし注意しなさい。あなたがたが皆、わたしを唯独り残し、散り散りになって各々自分の家に帰る時が来る。いや、もう来ている。それでもわたしは独りではない。父がわたしと共におられる」と忠告された。
そして遂に主が、晩餐の席で最後に残されたおことばが、33節b’ 「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」なのだ。
① 「世にあっては苦難があります」。
苦難とは、人誰しもが受けるであろう苦難のことではなく、先に語られていた、15章18~25節 「世があなたがたを憎む・・・」《 主に従う者であるが故に被る苦難 》で、主の生きられたように生きるなら必然的に受けるだろう苦難。
ローマ8章35、36節 ⇒ キリストへの忠誠心を引き離すことを目的として持ち込まれる「苦難、苦悩、迫害、飢え、裸(窮乏)、危険、剣」があり、その有様は、福音の為に「私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています」とある苦難。キリスト教会誕生の日から始まり、今日までその迫害の火は消えることなく、その火力はより一層強く燃え上がっている。使徒たちの証しが、人々からの尊敬、好意を持たれた場合には、ユダヤ教徒の妬みが教会を憎んで迫害し、教会撲滅運動が謀られる。
② 「しかし、勇気を出しなさい」。
詳訳 「堅く信じ、確信を持ち、臆せずにいなさい」とある。今、主が取り去られることによって、20節 「泣き、嘆き悲しむ」としても、22節 「・・・しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして・・・心は喜びに満たされ・・・その喜びを・・・奪い去る者はありません」とあるから。
その根拠は、詳訳 「わたしはあなたがたの為に、世からその害する力を奪い取った、世を征服したから」と!!
主が、「すでに世に勝ちました」とは、何という確信。
これは、十字架の死後の復活によって初めて成就するのだが、主は既に、十字架刑に臨まれる前に言っておられる、《 勝つだろうではない勝利宣言!! 》ここに何を見るべき?
第一コリント15章50~57節は、やがて【マタイ24章29~31節】「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。・・・みことばが実現します。『死は勝利に呑み込まれた。』・・・」と、主の再臨の時でのこと。しかし主は、この究極時の勝利宣言をこの場でしておられる。
何という決意の程が!! 後にゲツセマネでの祈りがあるが、「世に勝つ」為の死を決意しておられた。その死から逃れようとされることは主にはあり得なかった。12章27節 「いや、このためにこそ」、18章11節 「父がわたしに下さった杯」をわたしが飲まないということがあり得ようか、と。
お互い、決意で何かを成し遂げられるものではないことは知っている。しかし、決然と臨まれた主の姿勢を見る時、聖霊によってなら出来る、むしろ「勝った」と言って臨むべきとする真剣さ、真面目さ、危機感こそ必要なのだ。
主の「勝った」と言われる姿勢を見て、〈自らの弱さを盾に取って生きる甘え〉のない在り方に挑戦したい。何故なら、23、24、26、27節 「求めなさい。そうすれば受けます」とある。
※ これをもって《 十字架に向かわれた主に 》信仰的服従を!!
先週は、主が、ご自身が去って行くことで動揺している弟子たちに、迫害の事実を語ったのは※1節 詳訳 「あなたがたが不意を打たれてよろめかない、躓きと反発に陥ることのないように、あなたがたを守る為だ」と伝えた後、7節 「しかし・・・わたしが去って行くことは・・・益」と言われた所に学んだ。
「益」とは、7節 「去って行かなければ・・・。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします」にある。
ⅰ 御霊の世への働き 8節
9節 「罪」とは、「わたしを信じない」こと。
主のことばとわざによっても主を信頼しなかった頑なな者に聖霊が認罪を与え、悔い改めへの転換を起こされると。
10節 「義」とは、主を聖父が 死者の中からの復活の事実によって、主の神の子であるとの義を明らかにされると。
11節 「さばき」とは、主の復活が死に打ち勝たれたことにより、サタンの敗北宣言【創世記3章15節】がなされること。
ⅱ 御霊と弟子たちへの働き 13節 「・・・真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます」。
聖霊との交わりによって、いよいよ真理が分かるようにされていくとの約束。
ⅲ 御霊と主への働き 14節 「御霊はわたしの栄光を・・・」。
三位一体の神《 聖父は計画し、御子が父の栄光を、御霊は御子の栄光を現すべく、人々を認罪に導き、神の子たちには内住して日夜御子の血潮をもっては完成に導かれる。
※ 弟子たちへの懇ろな主の語り掛けは、お互いへのものとして励まされ、大胆にこの世に出る者でありたい、と。
今朝は、最後の晩餐の席での訓示がこれで最後の最後となる《 主と弟子たちとの会話 》の鍵※33節に注目したい。
弟子たちは、16節で主が、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます」と言われたことが理解出来ず、17、18節 「そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。『・・・どういうことなのだろうか。』・・・『しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない』と言った」と。しかし彼らは、主が、19節 「彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた」とあることから、尋ねるのを躊躇っていたようだ。
そこで主は、その彼らの思いを放置せずに「互いに論じ合っているのですか」と、その弟子たちの戸惑い、しかし尋ねることが出来ずにいる様子をしっかり受け止めておられる。
最終的に彼らは、主の懇ろな説明を受けて、29、30節 「弟子たちは言った。『本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。』」との確信に導かれた。
この告白を聞かれた主は、31、32節 詳訳 「あなたがたは今、遂に信じるというのか。しかし注意しなさい。あなたがたが皆、わたしを唯独り残し、散り散りになって各々自分の家に帰る時が来る。いや、もう来ている。それでもわたしは独りではない。父がわたしと共におられる」と忠告された。
そして遂に主が、晩餐の席で最後に残されたおことばが、33節b’ 「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」なのだ。
① 「世にあっては苦難があります」。
苦難とは、人誰しもが受けるであろう苦難のことではなく、先に語られていた、15章18~25節 「世があなたがたを憎む・・・」《 主に従う者であるが故に被る苦難 》で、主の生きられたように生きるなら必然的に受けるだろう苦難。
ローマ8章35、36節 ⇒ キリストへの忠誠心を引き離すことを目的として持ち込まれる「苦難、苦悩、迫害、飢え、裸(窮乏)、危険、剣」があり、その有様は、福音の為に「私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています」とある苦難。キリスト教会誕生の日から始まり、今日までその迫害の火は消えることなく、その火力はより一層強く燃え上がっている。使徒たちの証しが、人々からの尊敬、好意を持たれた場合には、ユダヤ教徒の妬みが教会を憎んで迫害し、教会撲滅運動が謀られる。
② 「しかし、勇気を出しなさい」。
詳訳 「堅く信じ、確信を持ち、臆せずにいなさい」とある。今、主が取り去られることによって、20節 「泣き、嘆き悲しむ」としても、22節 「・・・しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして・・・心は喜びに満たされ・・・その喜びを・・・奪い去る者はありません」とあるから。
その根拠は、詳訳 「わたしはあなたがたの為に、世からその害する力を奪い取った、世を征服したから」と!!
主が、「すでに世に勝ちました」とは、何という確信。
これは、十字架の死後の復活によって初めて成就するのだが、主は既に、十字架刑に臨まれる前に言っておられる、《 勝つだろうではない勝利宣言!! 》ここに何を見るべき?
第一コリント15章50~57節は、やがて【マタイ24章29~31節】「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。・・・みことばが実現します。『死は勝利に呑み込まれた。』・・・」と、主の再臨の時でのこと。しかし主は、この究極時の勝利宣言をこの場でしておられる。
何という決意の程が!! 後にゲツセマネでの祈りがあるが、「世に勝つ」為の死を決意しておられた。その死から逃れようとされることは主にはあり得なかった。12章27節 「いや、このためにこそ」、18章11節 「父がわたしに下さった杯」をわたしが飲まないということがあり得ようか、と。
お互い、決意で何かを成し遂げられるものではないことは知っている。しかし、決然と臨まれた主の姿勢を見る時、聖霊によってなら出来る、むしろ「勝った」と言って臨むべきとする真剣さ、真面目さ、危機感こそ必要なのだ。
主の「勝った」と言われる姿勢を見て、〈自らの弱さを盾に取って生きる甘え〉のない在り方に挑戦したい。何故なら、23、24、26、27節 「求めなさい。そうすれば受けます」とある。
※ これをもって《 十字架に向かわれた主に 》信仰的服従を!!
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