聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 56


ヨハネの福音書16章1~16節

 先週は、18節 「世があなたがたを憎む」と明言された《 弟子たちと世との関係について 》考えた。この「世」とは、サタンの支配下にあって主に敵対し、神の裁きに服さなければならない対象であるが、神にとっては、3章16節 「世を愛され」と、あくまでも救いの対象である。
 主が弟子たちに伝えた《 憎まれる理由とは? 》に注目した。

ⅰ 19節 ⇒ 弟子たちが世とは違った価値観に生きる者だからであり、弟子たちが「自分のものを愛」する世に従わない、「世のものでは」ないので、憎まれることに。
 第一ペテロ4章2節 「それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。・・・異邦人たちは、あなたがたが一緒に【手を携えて】、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い【異様に思い】、中傷し【呪い】ます」に明らか。

ⅱ 22節 「もし・・・話さなかったら」、24節 「もし・・・行わなかったら・・・」と、主の話し、行ったことが、彼らを追い込み、彼らに神から遣わされたお方だと認めざるを得なくさせたので憎まれることに。
 25節 「これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』・・・」と、26、27節の権威ある静かな確信を抱かれ、やがてペンテコステの出来事から始まる《 聖霊の証言と聖霊によって変貌する弟子たちの証言 》がその裏付けだと言われた。

※ 但し、主がこの様に警戒される時にも、21節b’ 「わたしを遣わされた方を知らないから」と言われた。実に十字架上で彼らの無知を嘆いての祈りに、主のその愛を見て留意をと。


 今朝は、主の語られるおことばがいよいよ深刻さを増していくのを感じていく弟子たちを見て、6節 「あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています」と気遣われる主が、7節 「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです」と、精魂を込めて語られたところに学びたい。
 確かに主が察知されたように、弟子たちは《 世から必ずや受けることになるだろう憎しみ、迫害、主が経験されたこと同様 》扱いの何なるかを聞いた時、動揺したのだ。
 しかし主は、彼らが動揺するであろうと知りつつも語らなければならない理由をお持ちだった。16章1節 「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないため」とは、何と真実で、愛に満ちたお扱いだったことか!!
 ところが主は、4節d 「わたしは初めからこれらのことを話すことはしませんでした」と言われた。「それはあなたがたとともにいたからです」と。
 それは主が、弟子たちの初期においては、ご自身が人々からの嫉妬による反感、恨み、憎しみを買っておられるのを、彼らが傍らで見ていることで十分とされていたからだ。
 主は、ルカ22章24~28節に言及されているこの最後の晩餐の席での弟子たちの目に余る優劣を競い合う姿のことでは、26節 「給仕する者のようになりなさい」と忠告された。しかし直後、何と!! しんみりと、28節 「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に【ずっと】踏みとどまって【耐え抜いて】くれた人たちです」と言われた。

 但し、16章5節 「わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとして」いる今はと、弟子たちへの直接的な迫害について語られたのだ。それは、1節 詳訳 「不意を打たれてよろめかない、躓きと反発に陥ることのないように、あなたがたを守る為」にだと。事実、主のこの忠告が、2節 「人々はあなたがたを会堂から追放」するという記録書『使徒の働き』に現実となっているのを見る。ペテロ自らが、第一ペテロ4章12~16節 「・・・何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません」と言っていることは実に幸いだ。
 主がこの弟子たちを激励して、7節 「わたしが去って行くことは・・・益になる」と言われた「益」とは、7節 「去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします」にある、と学んで Message としたい。
 即ち、「助け主 ⇒ 助言者、弁護者、援助者、執り成す者、激励者」である聖霊の働きが与えられるから「益」だと!!

① 御霊の世への働き 8節 「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます(※世の人の目を開く ※世に誤りを認めさせます)」。

 9節 「罪」とは、「わたしを信じない」こと。
 人々は、主のことばとわざによって、主を信頼に値するお方であると認めざるを得なくされたにも拘らず、信じようとしなかった頑固者。しかし聖霊が臨まれる時、その人々の心に認罪を与え、悔い改めへの転換を起こされると。
 現に、聖霊によるペテロの説教は、「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロ・・・たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』 使徒2章37節」と叫ばせた。
 10節 「義」とは、主を聖父が死者の中から復活の事実【使徒2章23、24節 「この方が死につながれていることなど、あり得なかったから」】によって、主の聖父の聖前における義を明らかにされ、主の完全性が証しされる。
 11節 「さばき」とは、主の復活が死に打ち勝たれた証明であり、サタンの敗北宣言【創世記3章15節】の成就。

② 御霊と弟子たちへの働き 13節 「・・・真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます」。

 12節は、弟子たちが未だ聞いても分からない状態に在ったとの証しであるが、聖霊との交わりによって、いよいよ知るべき真理が分かるようにされるとの約束。

③ 御霊と主への働き 14節 「御霊はわたしの栄光を・・・」。

 三位一体の神のそれぞれのご人格においてのお働きの示唆がここに。聖父は計画し、御子が父の栄光を、御霊は御子の栄光を現すべくこの世に遣わされ、世を救うべく認罪に導き、受け入れた神の子たちには内住して日夜御子の血潮をあてがっては、完成に導かれる。

※ 弟子たちへの懇ろな主の語り掛けは、お互いへのものとして励まされ、大胆にこの世に出る者でありたい。

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