聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 55


ヨハネの福音書15章18~27節

 先週は、1~11節《 主と弟子たちとの関係 》に次いで、12~17節《 弟子たち間の関係 》について語られたところに学んだ。
 この関係は13章34、35節で触れられていたが、重ねて言われる必要があったのだ。彼らには性格的欠陥があり、人間的有能さに優れてはいないが、主の彼らへの危惧はそれらには無く、唯一つ、互いの間に愛が無かったことだったから。
 主の※12節 「・・・ように、あなたがたも」の愛を考えた!!

ⅰ 13節《 友の為に自分のいのちを捨てる、捨てさせる 》愛。
 主のこのおことばを、弟子たちの誰が理解しただろう?
 「・・・あなたのためなら、いのちをも捨てます」と言ったペテロと弟子たちだったが、自らに身の危険を感じた時、主を独り残し、主を見捨てて一目散に逃げ出したのだから。
 主の「愛」とは、ローマ5章5b~10節 「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれて」初めて持つことの出来る愛で、生来の私の中にはない《 アガペーの愛 》で、「不敬虔な者、罪人、敵」を友と呼び、「キリストの血によって」即ち、いのちを捨てて愛し、ましてや「義と認め」る愛!!

ⅱ 16節a《 第一ヨハネ4章19節 「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださった」 》愛。
 主にあるこの積極性が、愛の特質。裏切ったペテロに「あなたはわたしを愛していますか」と尋ね、放蕩息子に「駆け寄って彼の首を抱き、口づけした」父の愛。
 16節b'は、敗北者を癒し、主の為に生きる者への変貌を。

※ 主の命令は、聖霊によって 弟子たちをして そこに生かす権威によるものと覚えて、信仰で受け止めたいと。


 今朝は、先ず主との関係、続く弟子の間における関係、更には、主が取り去られてから宣教を委ゆだねられる弟子たちが必ずや直面するであろう※18節 「世があなたがたを憎むなら」と明言された《 弟子たちと世との関係について 》考えたい。
 この「世」とは、既に、14章30節で主が、「この世を支配する者が来る」と言われて《 世はサタンの支配下にあって主と敵対関係 》にあり、12章31節 「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます」と、神の裁きに服さなければならない対象であると。
 しかし神は、3章16節a 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と言われる世であり、16節b 「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と、救いの対象としておられる世なのだ。そして信じる者※13章1節d 「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」と、極みまでの愛をもって愛してくださった。

 主のその愛の証としての警告が、ここにある。
 警告の中心は、15章18節a 「世があなたがたを憎むなら」であり、この「なら」とは、仮定して言われたのではなく、実際「憎む」と言われた。19節d 「世はあなたがたを憎むのです」、20節c 「あなたがたも迫害します」と、極めて現実的なこと。
 主はこの警告をどのような思いで語られただろうか?
 その御思いは《 いよいよゲツセマネの園での捕縛を前にして祈られた 》17章の祈りに反映されている。
 先ずご自身の為の祈り、その後 捧げられた※9節a 「わたしは彼らのためにお願いします」、11節 「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください」、14、15節 「・・・世は彼らを憎みました。・・・わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださる」ようにとの祈りに。

主が弟子たちに伝えた《 憎まれる理由 》に注目したい。

① 19節 「もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです」と《 弟子たちが世とは違った価値観に生きる者 》だから。

 主は「世は自分のものを愛」するが、あなたがたが「世のものでは」ないという理由で憎むと明言された。
 第一ペテロ4章2節 「それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。異邦人たちは、あなたがたが一緒に【手を携えて】、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い【異様に思い】、中傷し【呪い】ます が、彼らは、生きている者と死んだ者を・・・」に明らか。
 即ち《 神の御心に生きるのか、生来のままに生きるのか 》の本質的な違いによって生じる摩擦の必然性のため。
 15章20節 「しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します」、 21節a 「これらのことを・・・わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います」に見る《 彼らの憎む主に従い、主との親しい交わりにある 》から。

② 22節 「もしわたしが来て彼らに話さなかったら」、24節 「もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら」と、主が神から遣わされたお方と認めざるを得なくされたことで《 彼らには 最早弁解の余地のない状況に追い詰められることになった 》から。

 25節 「これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』・・・」と、26、27節の権威ある静かな確信を抱かれ、やがてペンテコステの出来事から始まる《 聖霊の証言と聖霊によって変貌する弟子たちの証言 》がその裏付けとなると言われた。

※ 但し、主が、こうして取り残される弟子たちに、この世との現実的関係について話される時にも、主は決してこの世を敵と見做さずに語っておられる一点には留意したい。それは、21節b’ 「わたしを遣わされた方を知らないからです」と言われた主の愛、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られた彼らの無知を嘆かれた主の愛を!!

この記事へのコメント