聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 54


ヨハネの福音書15章12~17節

 先週は、主が弟子たちとの関係を《 ぶどうの木と枝の関係 》に譬たとえ、彼らの今後に備えて語られた※4節に注目した。

ⅰ 「わたしにとどまりなさい」とは?
 主との絶たれることのない交わりに生き続けるの意。
 それは、7節 「わたしのことばが・・・」、10節 「戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっている」ともあり、主の語られるおことばに常に聞き、その都度 実際生活において誠実に従うべく心を砕いていくことを意味している。

ⅱ 「わたしにとどまりなさい」と言われる理由は?
 1節 「わたしの父は農夫」の聖父が、ぶどうの木に《 2節に見る丹精込めての手入れ、小まめな剪定作業をしながら 》豊かな結実を期待されるお方だから。
 実を結ばない ⇒ ある期間、主にとどまって実をつけていたが、「生活の心配や富や快楽に押さえつけられて〈息の根を止められて〉実の熟さない」枝には警戒であるが、「みことばを聞いたなら・・・〈潔い〉心で、これをしっかりと保ち、忍耐をもって着実に実を結ばせる枝」であることを期待。
 ヨハネ15章2節 「実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みを【繰り返し】なさいます」とは霊的痛みの伴うお扱いに与ること。「きよい」とあるように、清めの必要性を迫り続けてくださる扱いである。

ⅲ 結ばれる「実」とは?
 主の内を流れる樹液・聖霊の性質に与ること⇒ガラテヤ5章22、23節
 詳訳 「聖霊の果実〈聖霊の内住によって成し遂げられる〉愛・・・」であると。

※ 主との生きた交わりに日々保たれ、主の為に結実を、と。


 今朝は、先週の《 主と弟子たちとの関係 》に次いで、12節 「あなたがたも互いに愛し合うこと」、17節 「あなたがたが互いに愛し合うこと」と《 弟子たちの在るべき関係について 》語られたおことばに注目したい。
 この「互いに愛し合う」関係については、既に、13章34、35節で触れられていたが、より強調して命じておられてのこと。
 それは弟子たちには重ねて言われる必要があったからであり、仮に彼らの人間的欠けが致命的では? と見做されても、この一点さえ確かであるならば、それらのことは物の数ではないからだ。ペテロとヨハネとが、聖霊に満たされて「『美しの門』と呼ばれる宮の門に置」かれていた生まれつき足の不自由な人を癒やした時、彼らの大胆さを見た人々は、「二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた」とある(使徒3、4章)。
 弟子たちには、それぞれ性格的な欠陥があり、決して人々から称賛され、もてはやされる有能さがあった訳でもない。
 その弟子たちに主が危惧しておられたこととは唯一つ、彼らの互いの間に愛が無かったこと。即ち、彼らがいつも互いの間で嫉妬心を抱き、持ち前の気質をぶつけては競い合う《 極めて嫌悪すべき肉のまま 》の彼らだったことだ。
 主は弟子たちを御側において、15節 「わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせた」と言われたが、もし彼らが最も肝心な愛に根差していなかったならば、全てが水泡に帰すからだ。
 第一コリント13章1~3節 「たとえ・・・しても、愛がなければ、・・・私は無に等しい・・・。何の役にも立ちません」とあるように。
 主が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」と言われた《 主の愛 》を考えたい!!

① 13節 「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」という《 友の為に自分のいのちを捨てる、捨てさせる 》愛。

 ここで主が言われる「友」とは、直接的には、15節 「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです」と言われた弟子たち。
 主のこのおことばを、弟子たちの誰が理解しただろう?
 13章36~38節を思い返してみたい。「・・・あなたのためなら、いのちをも捨てます」と言ったペテロ。しかし彼のみならず、他の福音書には彼に同調して皆自分たちもと言っている。「いのちを捨てること」と言われた時、“ はい、出来ますとも ” と言う聞き方だったのではなかったか。
 しかし弟子たちは、主の予告通り【彼らには心配ご無用の気持ちだったが】、彼らは自分のいのちに身の危険を感じた時、主を独り残し、主を見捨てて一目散に逃げ出したのだ。
 実は彼らは、自分たちには到底、出来る筈もない生き方について主は言っておられるのだと、気づくべきなのだが。
 この「いのちを捨てる」とは、自分の当然の権利を捨て、隣人の祝福を求めることを意味するのだから。洗足の時、誰一人立ち上がって主の御足をすら洗わなかった弟子たち。ましてや他の弟子たちの足を洗うなどとは以ての外の彼ら。
 実に主が弟子たちに模範を示された「愛」とは、ローマ5章5b~10節 「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれて」初めて持つことの出来る愛であって、生来の私たちの中にはない《 アガペーの愛 》なのだ。「不敬虔な者、罪人、敵であった私たち」であるにも拘らず、「キリストの血によって」、即ち いのちを捨てて愛し、ましてや「義と認められ」る愛!!

② 16節a 「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命し」た愛。

 第一ヨハネ4章19節 「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」、20、21節に※【私たちはこの命令を神から受けています】とヨハネは想起しているが、このおことばが解説である。
 主にあるこの積極性こそ、愛の特質である。弟子たちからの愛を待たずに、先ず主が彼らを愛する。あの復活の朝、主を裏切ったペテロのその後の涙を読み取り、「あなたはわたしを愛していますか」と尋ねられる主。父の赦しを求めて帰って来た息子が未だ家にまで辿り着いてもいないのに、見付けた父の方から「駆け寄って彼の首を抱き、口づけした」父の愛(ルカ15章18~24節)。
 16節b’ 「それは、あなたがたが行って実を結び・・・」と、敗北者を癒し、主の為に生きる者と作り替えるためである。

※ 主の命令は、聖霊によって 弟子たちをして そこに生きる者とする権威によるものと覚えて、信仰で受け止めたい。

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