聖日礼拝『ヨハネの福音書』より 53


ヨハネの福音書15章1~11節

 先週は、21節 「わたし自身をその人に現します」と言われた主が、25、26節 「しかし・・・聖霊は・・・教え・・・思い起こさせて」と、弟子たちの様々な弱さ【理解力の欠如、忘れっぽさ】を理解されて責任ある指導をされたおことばに学んだ。
 主からの※14章27節 「わたしはあなたがたに・・・平安を与えます」は、弟子たちが「ひるんで」いるからであり、主の「聖霊は・・・」とのおことばは彼らには激励だった筈。主が与えると言われた平安とは、ご在世中「悲しみの人」として生きて下さった主が《 持っていると言われた平安 》で、聖父の御心をのみ求め、ご自身を通して御心が行われれば良いとする聖父へのひた向きな愛によってもたらされる平安である!! 主を「その人に現します」と言われる聖霊はどの様にして? 

ⅰ 「あなたがたにすべてのことを教え」ることをもって。
 主の語られることを理解出来なくさせていた弟子たちの原因である※マルコ6章52節 「心が頑な」を、聖霊が清めることによって分かるようにして下さるからだ。

ⅱ 「あなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださ」ることをもって。
 主は、仮に彼らが今、理解出来ずとも、やがて、聖霊によって思い起こされる時が来ると確信されて語られたが、そこに払われた主の忍耐は計り知れない。
 この《 思い起こさせる 》には、学びへの勤勉さの勧めを含む。学ぶ全てを、御心に適って、時宜を得て、対応させ、求められる判断に導きを得られるようにして下さる。

※ 主を現すお方としての聖霊を当てにしての日々を、と!!


 今朝は、主がご自身と弟子たちとの関係を《 ぶどうの木と枝の関係 》に譬たとえて、弟子たちの今後の為に最も重視すべき点、4節a 「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」と言われたおことばに注目したい。
 この「とどまる」という言葉が、この箇所で12回用いられていることからも、重要なテーマは「とどまる」である。

① 「わたしにとどまりなさい」とは?

 主は、4節b 「枝がぶどうの木にとどまって【付いて ⇒ 生命的な結合を持っていなければ」とか、10節 「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっている【生き続けるのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっている【生き続けるのです」と、在るべき姿勢について語られ、或いは、5節c’ 「わたしを離れて【生命的結合から切り離されて】は」とも言われた。
 絶たれることのない交わりに生き続けることであると。
 この「とどまる」ことについての実際的な示唆は、7節 「わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」、10節 「戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっている」ともあり、主の語られるおことばに常に聞き、その都度 実際生活において誠実に従うことを意味している。
 主は、10節 「わたしが・・・父の愛にとどまっているのと同じように」と、弟子たちにご自身の生活で明らかにして来られた故、弟子たちは見て知っている筈。因みに、最後の晩餐の席で、13章14節 「あなたがたもまた、互いに」と。
 しかし、主のおことばを聞くことはあっても、示されたことに従おうともせずに自分の思いを貫くならば、その在り方が、「離れる」ことを意味すると言われた。
 詩篇40篇8節 「わが神よ 私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは、私の心のうちにあります」の告白に日々生きる生活を意味する。と同時に、詩篇139篇23、24節の祈りを捧げる生活を!!

② 「わたしにとどまりなさい」と言われる理由は?

 1節 「わたしの父は農夫」である聖父が、ぶどうの木に豊かな実を結ぶようにと期待を寄せ、丹精込めて手入れをしておられるからである。
 その手入れの様子が、2節 「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます」とあり、聖父の手入れは、小まめな剪定作業が特徴で、極めて厳格で、勤勉で、いい加減さがなくである。
 「わたしの枝で実を結ばないものは【結実しなくなった】すべて」とあるのは、「わたしの枝」と言われていた枝で、ある程度、主にとどまって、それなりの実を結んだことはあるが、遂には結ばなくなった枝のこと。
 主の種蒔きの話【ルカ8章11~15節】に、その原因を見る。
 警戒すべきは《 茨いばらの土壌 》。即ち、「実が熟すまで」に至らせなかった霊的土壌の問題。自らの霊的生活を「良い地」であるよう心掛けなかった霊的怠慢にある。
 「その心からみことばを取り去ってしま」われたままにする状況は許さなかった※12節 「道端」の人ではなく、又、13節 「根がないので、しばらくは信じていても試練のときに身を引いてしまう」、「岩の上」の人のようでもなかった。
 何と、ある一定の期間、根を下ろす生活をし、「実」をつけるところまでは行った※14節《 茨の地 》。残念なことには、折角、実をつけていたのに、14節 詳訳 「日を過ごす〈あれやこれやしているうちに〉生活の心配や富や快楽に押さえつけられて〈息の根を止められて〉実の熟さない」人のこと。
 しかし、15節 「良い地」ならば、即ち、詳訳 「みことばを聞いたなら、正しい〈潔い〉心で、これをしっかりと保ち、忍耐をもって着実に実を結ばせる者たち」となると。
 ヨハネ15章2節 「実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みを【繰り返し】なさいます」と、「実」をつけ始めた枝には深い切込みを入れられては、より良い実を結ばせることに専念される。この切込みとは、霊的痛みの伴うお扱いに与ること。「きよい」とあるように、清めの必要性を迫り続けて頂くことによるお扱いである。

③ 結ばれる「実」とは?

 ぶどうの木である主の枝だから、主の内を流れる樹液・聖霊の性質に与ること ⇒ ガラテヤ5章22、23節 詳訳 「聖霊の果実〈聖霊の内住によって成し遂げられる〉愛・・・」と。

※ 主との生きた交わりに日々保たれ、主の為に結実を!!

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