ヨハネの福音書14章25~31節
先週は、主が去られることで、心を騒がした弟子たちに《 主への思いを見て 》15節 詳訳 「もし・・・わたしを愛するなら、わたしの命令・・・〈に服従する〉」よう迫られたおことばに注目。
主の為に何かをすれば、何かが出来れば良しとする生き方ではなく、悉ことごとく、第一コリント13章《 愛の性質 》をもって主に仕える生き方をもって従うこと。
ⅰ この「戒めを守る」生き方の実現の為に。
16、17a 詳訳 「もう一人の慰め主〈助言者、助け主、執り成す者、弁護者、激励者、援助者〉を与えられる。その方は真理の御霊」と《 聖霊を紹介 》された。但し、自動的に与えられるのではなく、14節 「わたしの名によって・・・求めるなら」と、内的矛盾を感じるその都度、清めの必要性をもって聖前に出ては十字架の死に与る その都度与えられる。
ⅱ この「戒めを守る」者への約束。
21b 詳訳 「わたしを本当に愛する者はわたしの父に愛される。わたしも又その人を愛して、その人にわたし自身を〈啓示する、はっきり示す、目の当たりに示す〉」、即ち、神をより現実的に知らされると!! 何という特権!! 永遠のいのちとは「神を知ること」にあるから。更に、22節の質問に《 神を知るのは神を愛し、愛故に従う、その姿勢に比例している 》と。主はこの世に現されなかった訳ではない。現して来られたにも拘らず嫌悪し殺害を企て、自ら神を知ることを拒絶した為、主を知らないのがこの世。
※ 本当に主を愛しているだろうか? 愛し従うことに比例して主を知るとのおことばに内的吟味を、と。
今朝は、先に※21節 「・・・わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します」と言われた主が、その時受けられたユダの※22節に答えつつも尚、ご自身の「現します」と仰ったことについて、責任ある指導を加えられたおことばに注目したい。
そのおことばは、25、26節 「これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」である。
即ち、聖霊によって明らかに《 啓示される 》と激励された。
この「しかし」には、弟子たちの様々な弱さ【理解力の欠如、忘れっぽさ】を理解されてのお気持ちが込められている。
現に臆病になっている弟子たちには※27節 「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせては・・・ひるんでは・・・」と、激励が必要だった。
この「わたしの平安」とは、「わたしが持っている平安」の意。主が持っている平安とは? 実際主は、つい先には、12章27節 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」と言われたばかり。しかしその時に、「わたしが持っている平安」と言われた平安!! 更には、この最後の晩餐から立ち上がられて、ゲツセマネの園に行かれて祈られた祈りにおいては?
へブル5章7、8節 「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び」とあるように《 ご在世中はご受難を意味する「死」が常の状態であられ、「悲しみの人」として生きて下さった 》主であるにも拘らず、「わたしが持っている平安」と言われた「平安」。
弟子たちに約束されたこの「平安」とは、世が求めて喜ぶ性質の平安ではなく、如何なる受難にも いつも内に秘めておられた「平安」!!
この「敬虔」、即ち聖父の御心をのみを求め、ご自身を通して御心が為されさえすれば良いとする聖父へのひたむきな愛によってもたらされる平安!!
ウェスレーの言う “ 嵐に見舞われて荒れ狂う海面も、海底は驚くほど静寂であるように・・・ ” の言葉が当てはまる。世は荒波のないことをもって「平安」とし、少しの荒波さえも嫌って避けようと必死になるが、その様ではないと。
続いて主は、28節 「『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです」、30節 「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません」、31節 「・・・さあ、ここから行くのです」と弟子たちを懇ねんごろに激励される。
ここで主が、ひるむ弟子たちの現実を知られた上で、※26節で再度強調されたこと、それは「助け主」聖霊を信頼しさえすれば良いとされた理由を見て Message としたい。
① 「あなたがたにすべてのことを教え」るから。
実際のところ、主が語られる殆どを弟子たちは理解出来ず、水上歩行時には※マルコ6章52節 「彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである」、四千人の給食時には※同8章14~21節 「まだ悟らないのですか。」と言われるのが常だった。聖霊による肉の清めに与って初めて分かるようにされる。
② 「わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださ」るから。
確かに、『使徒の働き』におけるペテロの説教、或いは彼の手紙 第一、第二は、聖霊によって思い起こさせて頂いているからこそ語られていると頷うなずかされる。主はやがて彼らが、聖霊によって思い起こされる時が来ることを確信されて、弟子たちには語っておられた。仮にその時 理解出来なくとも。
その為に主は、今の弟子たちに失望せず 忍耐し期待して関わっておられた。或いは、学ぶことに勤勉でありさえすれば、御心に適って、時宜を得た対応の仕方、求められる判断にも発言にも、導きが得られるようになると。
※ 主が去られた後、弟子たちが最優先すべき課題は、唯、聖霊を受け、聖霊によって生きることを会得するのみ(ガラテヤ5章24、25節)。互いにおいても、「御霊によって」のこの一事に留意したい!!
先週は、主が去られることで、心を騒がした弟子たちに《 主への思いを見て 》15節 詳訳 「もし・・・わたしを愛するなら、わたしの命令・・・〈に服従する〉」よう迫られたおことばに注目。
主の為に何かをすれば、何かが出来れば良しとする生き方ではなく、悉ことごとく、第一コリント13章《 愛の性質 》をもって主に仕える生き方をもって従うこと。
ⅰ この「戒めを守る」生き方の実現の為に。
16、17a 詳訳 「もう一人の慰め主〈助言者、助け主、執り成す者、弁護者、激励者、援助者〉を与えられる。その方は真理の御霊」と《 聖霊を紹介 》された。但し、自動的に与えられるのではなく、14節 「わたしの名によって・・・求めるなら」と、内的矛盾を感じるその都度、清めの必要性をもって聖前に出ては十字架の死に与る その都度与えられる。
ⅱ この「戒めを守る」者への約束。
21b 詳訳 「わたしを本当に愛する者はわたしの父に愛される。わたしも又その人を愛して、その人にわたし自身を〈啓示する、はっきり示す、目の当たりに示す〉」、即ち、神をより現実的に知らされると!! 何という特権!! 永遠のいのちとは「神を知ること」にあるから。更に、22節の質問に《 神を知るのは神を愛し、愛故に従う、その姿勢に比例している 》と。主はこの世に現されなかった訳ではない。現して来られたにも拘らず嫌悪し殺害を企て、自ら神を知ることを拒絶した為、主を知らないのがこの世。
※ 本当に主を愛しているだろうか? 愛し従うことに比例して主を知るとのおことばに内的吟味を、と。
今朝は、先に※21節 「・・・わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します」と言われた主が、その時受けられたユダの※22節に答えつつも尚、ご自身の「現します」と仰ったことについて、責任ある指導を加えられたおことばに注目したい。
そのおことばは、25、26節 「これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」である。
即ち、聖霊によって明らかに《 啓示される 》と激励された。
この「しかし」には、弟子たちの様々な弱さ【理解力の欠如、忘れっぽさ】を理解されてのお気持ちが込められている。
現に臆病になっている弟子たちには※27節 「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせては・・・ひるんでは・・・」と、激励が必要だった。
この「わたしの平安」とは、「わたしが持っている平安」の意。主が持っている平安とは? 実際主は、つい先には、12章27節 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」と言われたばかり。しかしその時に、「わたしが持っている平安」と言われた平安!! 更には、この最後の晩餐から立ち上がられて、ゲツセマネの園に行かれて祈られた祈りにおいては?
へブル5章7、8節 「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び」とあるように《 ご在世中はご受難を意味する「死」が常の状態であられ、「悲しみの人」として生きて下さった 》主であるにも拘らず、「わたしが持っている平安」と言われた「平安」。
弟子たちに約束されたこの「平安」とは、世が求めて喜ぶ性質の平安ではなく、如何なる受難にも いつも内に秘めておられた「平安」!!
この「敬虔」、即ち聖父の御心をのみを求め、ご自身を通して御心が為されさえすれば良いとする聖父へのひたむきな愛によってもたらされる平安!!
ウェスレーの言う “ 嵐に見舞われて荒れ狂う海面も、海底は驚くほど静寂であるように・・・ ” の言葉が当てはまる。世は荒波のないことをもって「平安」とし、少しの荒波さえも嫌って避けようと必死になるが、その様ではないと。
続いて主は、28節 「『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです」、30節 「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません」、31節 「・・・さあ、ここから行くのです」と弟子たちを懇ねんごろに激励される。
ここで主が、ひるむ弟子たちの現実を知られた上で、※26節で再度強調されたこと、それは「助け主」聖霊を信頼しさえすれば良いとされた理由を見て Message としたい。
① 「あなたがたにすべてのことを教え」るから。
実際のところ、主が語られる殆どを弟子たちは理解出来ず、水上歩行時には※マルコ6章52節 「彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである」、四千人の給食時には※同8章14~21節 「まだ悟らないのですか。」と言われるのが常だった。聖霊による肉の清めに与って初めて分かるようにされる。
② 「わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださ」るから。
確かに、『使徒の働き』におけるペテロの説教、或いは彼の手紙 第一、第二は、聖霊によって思い起こさせて頂いているからこそ語られていると頷うなずかされる。主はやがて彼らが、聖霊によって思い起こされる時が来ることを確信されて、弟子たちには語っておられた。仮にその時 理解出来なくとも。
その為に主は、今の弟子たちに失望せず 忍耐し期待して関わっておられた。或いは、学ぶことに勤勉でありさえすれば、御心に適って、時宜を得た対応の仕方、求められる判断にも発言にも、導きが得られるようになると。
※ 主が去られた後、弟子たちが最優先すべき課題は、唯、聖霊を受け、聖霊によって生きることを会得するのみ(ガラテヤ5章24、25節)。互いにおいても、「御霊によって」のこの一事に留意したい!!
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