ヨハネの福音書14章15~24節
先週は、主が※7節 「わたしを知ることを〈学んで〉いたならば〉、わたしの父をも知っていたであろう」と言われた時、ピリポから出た質問【8節】に応えられたおことばに注目した。
その時の【9節】主に、又してもの無知に悲しまれる様子を見るが、11節 「・・・信じなさい」と熱意をもって諭される。
弟子たちは《 主をどの様なお方として知るべき 》だった?
ⅰ 9節c《 父と一つであるお方 10、11節 》として。
何故なら、10節b 詳訳 「わたしがあなたがたに語っていることは自分の権威によって〈自分の考えのままに〉言うのではない。父が絶えずわたしのうちに生きておられ、みわざをなされる」ことで【全ての源を聖父に持つ 5章19、30節】からだと。
ⅱ 更に《 弟子たちを主と同じくするお方 》として。
弟子たちには 自分たちが受けて来た訓練の目的を再確認させられる約束事で、何と主は、「わたしが行うわざを行」い、「さらに大いなるわざを行います」とまで言われる。
a. 12節c 「わたしが父のもとに行くからです」と。
主の復活後の聖霊降臨を指し、弟子たちが経験する聖霊の満たしに与るからであり、その確かさは、『使徒の働き』、それ以降、迫害の中をくぐりながら 私たちにも及び、現在、迫害下にあっての宣教のうねりは勢いを増していると!!
b. 【13、14節】その祈りの動機は全て、「父が子によって栄光をお受けになるため」にあり、ピリピ2章11節 「すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」との《 宣教の結実 》にあると。
※ より確かに主を知る者となることに渇く者でありたい、と。
今朝は、主が去られると言うので、心を騒がした弟子たちに、その初め、3節 「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたを・・・迎えます」と言われた主が、そのおことばに続いて※15節 「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」と、弟子たちに諭されたおことばに注目したい。
主が、4節で「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」と言われてからの※5~14節【主と弟子たちとのやり取り】は、主が語ろうとされたこのおことばを中断させていたことになる。
しかし主はその間中、心を騒がしている彼らにご自身を想う気持ちがあるのを認められてのこと、15節 詳訳 「もし〈本当に〉わたしを愛するなら、わたしの命令を守る〈に服従する〉」と言われ、従うことで愛を示すべきだと迫られたのがこのおことばである。
その愛とは、マタイ7章21~23節 「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。・・・『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う【戒めを無視する】者たち、わたしから離れて行け。』」と、主が示された裁きの規準に明確であるように、「父のみこころを行う」こと。
何かをすれば、何かが出来ればそれで良しとする生き方ではなく、何事かをすることになった時の心の動きの純潔、それがどれだけ、第一コリント13章に示されている《 愛の性質 》基づいて生きているかを吟味する生き方である。
① この「戒めを守る」生き方 実現の為に。
16節、17節a 詳訳 「わたしは父に求める。父はあなたがたに、彼があなたがたと何時までも共に居られるように、もう一人の慰め主〈助言者、助け主、執り成す者、弁護者、激励者、援助者〉を与えられる。その方は真理の御霊」と《 聖霊を紹介 》された。
この「慰め主」とは、同情者の意ではなく、代言者、代行者の意で、告発に対して弁護するの意であるが、主は、そのお方によって弟子たちが生きられるように、聖父に求めて与えて頂くと言われた。
但し、自動的にではなく、14節 「わたしの名によって・・・求めるなら」であることに留意したい。その求めは、パウロの如く、ローマ7章15節 「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです」、24節 「私は本当にみじめな人間です」との自らの内的矛盾に気づいて悲しみ、何とかして頂きたいとの必要性を感じる主への誠実さの有無にある。主のご在世中には、弟子たちのうちにその必要性を感じることはなかった。彼らに渇きが生じたのは、主の復活後においてである。
17節には「世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません」とは、キリスト者とそうではない世の人との区別が《 聖霊を持っているのか、持っていないのか ローマ8章9節 》ここにあり、又このお方を「知る」とは、内住のお方として知ること。
聖霊は今も、この世の人々を救いに導かれるのに、外部から惜しみなく働き掛けておられるが、キリスト者とは内住するお方として日夜関わっていて下さる。
19、20節は何という望み!! 「あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。その日には・・・」とは、十字架による死後の復活によってもたらされる喜びの予告である。
② この「戒めを守る」者への約束。
21節b 詳訳 「わたしを本当に愛する者はわたしの父に愛される。わたしも又その人を愛して、その人にわたし自身を〈啓示する、はっきり示す、目の当たりに示す〉」と。
聖父、及び主を愛する者への【神からの特別に注がれる愛】とは・・・《 神をより現実的に知らされる 》とある!! 何という特権!! 永遠のいのちとは「神を知ること」にあるから。
ここに、22節のユダ(別名タダイ)の質問が入るが、23節で主は、無知である彼に重要なことを話された。
それは《 神を知るのは、神を愛し、それ故に従う、その姿勢に比例している 》と。主はこの世に現さなかった訳ではない。現して来られたにも拘らず嫌悪し殺害を企て、自ら神を知ることを拒絶した為、主を知らないのがこの世。
※ 本当に主を愛しているだろうか? 愛し従うことに比例して主を知るとのおことばに内的吟味を。第一ヨハネ5章3節!!
先週は、主が※7節 「わたしを知ることを〈学んで〉いたならば〉、わたしの父をも知っていたであろう」と言われた時、ピリポから出た質問【8節】に応えられたおことばに注目した。
その時の【9節】主に、又してもの無知に悲しまれる様子を見るが、11節 「・・・信じなさい」と熱意をもって諭される。
弟子たちは《 主をどの様なお方として知るべき 》だった?
ⅰ 9節c《 父と一つであるお方 10、11節 》として。
何故なら、10節b 詳訳 「わたしがあなたがたに語っていることは自分の権威によって〈自分の考えのままに〉言うのではない。父が絶えずわたしのうちに生きておられ、みわざをなされる」ことで【全ての源を聖父に持つ 5章19、30節】からだと。
ⅱ 更に《 弟子たちを主と同じくするお方 》として。
弟子たちには 自分たちが受けて来た訓練の目的を再確認させられる約束事で、何と主は、「わたしが行うわざを行」い、「さらに大いなるわざを行います」とまで言われる。
a. 12節c 「わたしが父のもとに行くからです」と。
主の復活後の聖霊降臨を指し、弟子たちが経験する聖霊の満たしに与るからであり、その確かさは、『使徒の働き』、それ以降、迫害の中をくぐりながら 私たちにも及び、現在、迫害下にあっての宣教のうねりは勢いを増していると!!
b. 【13、14節】その祈りの動機は全て、「父が子によって栄光をお受けになるため」にあり、ピリピ2章11節 「すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」との《 宣教の結実 》にあると。
※ より確かに主を知る者となることに渇く者でありたい、と。
今朝は、主が去られると言うので、心を騒がした弟子たちに、その初め、3節 「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたを・・・迎えます」と言われた主が、そのおことばに続いて※15節 「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」と、弟子たちに諭されたおことばに注目したい。
主が、4節で「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」と言われてからの※5~14節【主と弟子たちとのやり取り】は、主が語ろうとされたこのおことばを中断させていたことになる。
しかし主はその間中、心を騒がしている彼らにご自身を想う気持ちがあるのを認められてのこと、15節 詳訳 「もし〈本当に〉わたしを愛するなら、わたしの命令を守る〈に服従する〉」と言われ、従うことで愛を示すべきだと迫られたのがこのおことばである。
その愛とは、マタイ7章21~23節 「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。・・・『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う【戒めを無視する】者たち、わたしから離れて行け。』」と、主が示された裁きの規準に明確であるように、「父のみこころを行う」こと。
何かをすれば、何かが出来ればそれで良しとする生き方ではなく、何事かをすることになった時の心の動きの純潔、それがどれだけ、第一コリント13章に示されている《 愛の性質 》基づいて生きているかを吟味する生き方である。
① この「戒めを守る」生き方 実現の為に。
16節、17節a 詳訳 「わたしは父に求める。父はあなたがたに、彼があなたがたと何時までも共に居られるように、もう一人の慰め主〈助言者、助け主、執り成す者、弁護者、激励者、援助者〉を与えられる。その方は真理の御霊」と《 聖霊を紹介 》された。
この「慰め主」とは、同情者の意ではなく、代言者、代行者の意で、告発に対して弁護するの意であるが、主は、そのお方によって弟子たちが生きられるように、聖父に求めて与えて頂くと言われた。
但し、自動的にではなく、14節 「わたしの名によって・・・求めるなら」であることに留意したい。その求めは、パウロの如く、ローマ7章15節 「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです」、24節 「私は本当にみじめな人間です」との自らの内的矛盾に気づいて悲しみ、何とかして頂きたいとの必要性を感じる主への誠実さの有無にある。主のご在世中には、弟子たちのうちにその必要性を感じることはなかった。彼らに渇きが生じたのは、主の復活後においてである。
17節には「世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません」とは、キリスト者とそうではない世の人との区別が《 聖霊を持っているのか、持っていないのか ローマ8章9節 》ここにあり、又このお方を「知る」とは、内住のお方として知ること。
聖霊は今も、この世の人々を救いに導かれるのに、外部から惜しみなく働き掛けておられるが、キリスト者とは内住するお方として日夜関わっていて下さる。
19、20節は何という望み!! 「あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。その日には・・・」とは、十字架による死後の復活によってもたらされる喜びの予告である。
② この「戒めを守る」者への約束。
21節b 詳訳 「わたしを本当に愛する者はわたしの父に愛される。わたしも又その人を愛して、その人にわたし自身を〈啓示する、はっきり示す、目の当たりに示す〉」と。
聖父、及び主を愛する者への【神からの特別に注がれる愛】とは・・・《 神をより現実的に知らされる 》とある!! 何という特権!! 永遠のいのちとは「神を知ること」にあるから。
ここに、22節のユダ(別名タダイ)の質問が入るが、23節で主は、無知である彼に重要なことを話された。
それは《 神を知るのは、神を愛し、それ故に従う、その姿勢に比例している 》と。主はこの世に現さなかった訳ではない。現して来られたにも拘らず嫌悪し殺害を企て、自ら神を知ることを拒絶した為、主を知らないのがこの世。
※ 本当に主を愛しているだろうか? 愛し従うことに比例して主を知るとのおことばに内的吟味を。第一ヨハネ5章3節!!
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